でわひさしの日記

日々感じたこと・思ったことをつらつらと。

読解力が低いということなので「読解力」の定義と伸ばし方を考えてみる。

遅ればせながら、「AI vs 教科書が読めない子どもたち」を読みました。 

 何度か読もうと試みては、仕事に追われたりして読了することができませんでしたが、改めて読んで良かったと思えました。

 

この本に書かれている内容

この本は大きく2つの構成になっています。

  • AIに対する理解を深めるパート
  • 日本人の読解力がいかに低いかを示すパート

前段で、世の中にあふれている「AI」に関する誤解を解きながら、本来のAIができること・できないことを丁寧に説明しています。

そのなかに、AIは意味を理解することができない、と説明があります。

例えば、
1.太郎さんは花子さんが好き
2.花子さんは太郎さんが好き

2つの文章が持つ意味は違うのですが、文節・単語に区切ると同じ要素を使っており、それを組み替えているだけで、AIにはその違いを理解することができない、ということです。

AIはプログラムでしかなく数学的に表現ができないことしか実現できないため、iPhoneのSiriのように会話をしているようなAIが出てきたとしても、インプットから論理的な計算に基づいてアウトプットしているだけで、意味を理解して会話しているわけではない、という説明もあります。

そのため、AIに仕事を奪われないようにするためには、人間しかできない「意味を理解する」ことが必ず求められます。

しかし、現代人は意味を理解する(=読解力)のレベルが低い、ということを、この本の「日本人の読解力がいかに低いかを示すパート」で証明しています。
(ちなみに、”日本人の”と限定していますが、他国の分析をしていないのでそう表現していますが、他国の読解力が高いかどうかは不明です。)

細かな数字は忘れてしまいましたが、統計的には国立大学の良いところに行っている人たちくらいしか読解力があると言えない、というレベルでした。(あくまでも統計なのでどこ出身であっても人によって読解力の高い/低いは変わります。)

どのようなテストを用いて読解力の多寡を測っているのかは、ぜひこの本を読んでいただきたいところです。

 

ここでは「じゃあ読解力って何なの?」という点をもう少し深堀して考えてみたいと思います。

また、この本では読解力の向上のさせる方法に科学的に証明された方法はない、と説明しており、例えば読書量は読解力に比例しないといった実例も出ています。

が、せっかくなので、どうしたら読解力が向上するのかも一緒に考えていこうと思います。

 

読解力って何?

こういう時には原理原則。まずは辞書にあたってみましょう。

文章を読み、その内容を理解すること。(Weblio辞書から引用)

 文字の意味のままでしたが、二つの内容が含まれていることが分かります。

  1. 読むこと
  2. 理解すること

おそらく普通に生活していると、「1.読む」と「2.理解する」は同時に行っていると思います。が、難しい本だと読んでいるのに頭に入ってこない、といった経験はお持ちかと思うので、やっぱり「1.読む」と「2.理解する」は別物なのだと思います。

そこで、それを分解して考えると、

  1. 読む=表示されている文章を認識することができること。
  2. 理解すること=認識した文章を映像化することができること。

だと思います。

1.読む=表示されている文章を認識することができること。

 文章自体を認識できない、なんてことはないとお思いかもしれないですが、例えばアラビア語タイ語みたいな言語は、日本人では認識することすら難しいと思います。どこで文字の区切りがあるのか、文節がどこで区切られているのかすら分からないと思います。

まずはこれをやれるかどうか、が読解のスタートなのだと思います。

日本においては初期教育がしっかりと行えているので、識字率(字を認識することができる割合)は高い水準(99%)にあり、読解力が低い原因がここにあるとは考えにくいです。

2.理解すること=認識した文章を映像化することができること。

次に該当するのはここで、ここに読解力の低さの原因があると考えています。

私は、人が何かを理解するためには映像に置き換える必要があると考えており、文章についてもそれと同じだと思います。

例えば小説だと、書いてある文章からどんな情景なのかを思い浮かべ、主人公がどんな感情でどんな動きをしているのかを映像にすることで理解を進めていくと思います。

また、日常会話の場合でも、体験したこと(=映像)を言語化(=文章化)して相手に伝えることで、相手は文章を頭の中で再構成し映像を思い浮かべながら理解していると思います。

理解する能力=映像化することができる能力、だと考えています。

抽象的な内容や自分が全く知らない世界の話になるほど映像化の難易度は上がっていくので、これを幅広くできる人が理解力が高い人なのだと思います。

ちなみに、読む/聞く側の話ばかりしてますが、相手が映像化しやすいように話す/文章を書くことが、分かりやすい話し方/文章の書き方の本質だと考えています。

 

読んで理解すれば読解力は十分か?

読解力は「読んで、理解する」だけでOKか、というと、そうじゃない気がします。

相手の表現していることを理解することができるのに、なぜかコミュニケーションがうまくいかない、という経験を持っている人は多いと思います。

真の読解力に求められる要素は「読んで、理解する」だけでなく、「なぜそれを相手が表現したか」まで慮れるかどうかだと思います。

文章を読み解く時よりも口頭で会話する時の方が意識が向きやすいと思いますが、表現された内容をそのまま理解するだけでは裏側にある文脈やその人の考え方を把握することは困難で、理解する時に思い浮かべる映像が誤ったものになる可能性があります。

そのため、コンサルとしてクライアントと対峙する際には、相対する人の所属部門や経歴等を把握することで、守りたいものや達成したいことを想像しながら、一つ一つの表現を受け取るように心がけています。

それができるようになると、相手の表現している内容を表面的に理解するレベルから相手の意図していることを深く理解できるレベルに変わり、1から5や10を理解するようなことができるようになってきます。

 

「読解力」を身に着けるためにはどうしたらよいか。

 ここまで読解力とは何か(What)を深堀して考えてきました。

まとめると、読解力とは以下の3つの要素で構成されます。

  1. 読む=表示されている文章を認識することができること。
  2. 理解すること=認識した文章を映像として理解できること。
  3. 表現の背景を意識する=なぜその表現を使うかに思いを馳せること。

「1.読む」は日本語であれば日本人の大多数はおおよそできているので特に問題ないでしょう。自分/相手の意図していることを適切に表現する単語を多く知った方がと思いますが。

問題は「2.理解すること」と「3.表現の背景を意識すること」です。

2.映像として理解する能力を上げるためには

文章⇒映像、映像⇒文章ということを繰り返し練習をするしかないと思います。

が、それを言っても仕方ないと思うので、おススメなのは小説を読んだ後に映像化された作品を見ることです。(自分が表現する能力に不足を感じている場合は、映像化された作品を見る⇒小説を読む・人に話す)

抽象的な概念の書籍を読もうと思ってもなかなか能力は向上していかないと思います。(なぜなら概念を映像として理解することは難しいので)

そのため、まずは映像化しやすい小説を読むことをお勧めします。ただし、ただ小説を読むだけでは映像化の訓練にはならないため、まずは小説を読みながらどういった情景なのかをイメージすることです。その答え合わせといってはなんですが、映像化された作品を見れば小説の表現と自分のイメージの乖離に気づくことができます。

この際、読解力不足で小説を読んでいても頭に入ってこない感じがあれば、まずは映像化された作品を見てみてください。その後、小説を読めば頭の中にある映像を頼りに小説を読み進めていくこともできるようになります。

従って、小説を頼りにして文章⇒映像、映像⇒文章を繰り返してみることが初手です。

慣れてきたら抽象的な概念について記述されている書籍に触れてみてください。

3.表現の背景を意識するためには

これを訓練するためには「なぜ?」を繰り返し自身に問い続けるしかありません。

  • なぜ相手は〇〇と言ったのか、言っているのか

必ず表現には、その人の考え方(大切にしたいこと等)が反映されます。そのため、相手の言っていることを額面通りに受け取らない(疑う、と同義)よう上の質問を自分に投げかけます。(聞ける状況であれば相手に聞いてしまってもOK)

経験がこの能力を向上させることもあると思いますが、相手の所属部門や経験してきたこと等を把握することによって想像が働きやすくなるので、その人が大切にしているポイントに意識を向けながらコミュニケーションをとると良いです。

 そのためには、会社を例にとれば、部門の目的・ミッション等の知識獲得が必須です。

 

まとめ

「読解力」をテーマに考え始めたので、最初は文章を中心に考えましたが、読解力は文章だけでなく発言も同じように求められるなと感じてきました。

また、コミュニケーションは受け取るだけでなく渡す側にも当然なります。

「読解力」=文章を読む、というテーマでしたが、文章だけじゃないし受け取るだけじゃない、つまりコミュニケーション能力につながるような話だと思います。

思わぬ長文になってしまいましたが、少しでもお役に立てればと思います。

 

なお、理解することを「映像化できるかどうか」と表現していますが、視覚的・聴覚的・体感覚的な認識方法がある、といった説明をNLPの本で読んだことがあります。(あまりNLPに詳しいわけではないので、あやふやですが。)

そのため、人によっては映像化ではなく、音にできるか、触覚に変換できるか、といった理解の方法があるのかもしれないです。(私が視覚的な理解をしているだけの可能性もあります。)

NLPの基本がわかりやすくまとめられている本がどれか分からないですが、いくつかリンクを貼っておきます。 

マンガでわかる!  すぐに使えるNLP

マンガでわかる! すぐに使えるNLP

 
マンガでやさしくわかるNLP

マンガでやさしくわかるNLP

 
手にとるようにNLPがわかる本

手にとるようにNLPがわかる本

 

 では。

高校野球観戦(甲子園)の持ち物

高校野球を観戦しに甲子園に行くのが恒例行事となっています。

毎年行っている割に持ち物が安定しないので、この機会に持ち物リストを作っておこうかと思います。

自分用のメモとして記録を残しておこうと思っていますが、甲子園に行く方はご参考になればと思います。

 

なお、高校野球観戦@甲子園および私の過ごし方には以下のような特徴があるので、それに合わせた準備をしています。

  • 8月中旬の朝~夕方ごろに開催される。
  • 1日に3~4試合開催される。(全試合見る前提です。)
  • 外野席は屋根が無いため直射日光を浴び続ける。
  • 2日~3日程度続けて観戦する。
  • 東京在中のため、甲子園近辺で宿泊。
  • 写真が趣味なので、カメラでの撮影を前提。

 

では、持ち物リストです。

 

リュック

リュックはこれを使ってます。 収納力も高いので、ちょっとした旅行の時にはこれを使います。(当たり前ですが、重く・大きくのなるのがネックですが。。。)

 

メイン収納スペース

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メイン室を覆いかぶせるようにタオルを入れてます。

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タオルの下にはこのような感じで入れてます。

以下のような中身です。(リンクは一部だけ載せておきます。)

外野席からの写真撮影のためカメラレンズは望遠ズームを持っていっています。

外野席(前方)からでも、このくらいの写真が撮れます。

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トリミングなしでもこのくらいは撮れます。

また、氷のうは個人的には必須アイテムです。

暑い甲子園なので定期的に中身を入れ替えながら、熱くなっているところに当ててあげるだけでも熱中症対策になります。ロックアイスを買っていって、定期的に入れ替えれば、現地でかちわり氷を買うよりも安く済みます。

 

上部(内側)

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カメラバッグ(上部)のメインスペース

ここは着替えをいれるだけでほとんど終わりです。

 

上部(外側)

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カメラバッグ(上部)の外側スペース
  • 携帯ケーブル3本
  • ACアダプタ
  • モバイルバッテリー
  • メモリーカード
  • カメラ用バッテリー予備×2

ここには小物を収納しています。カメラ関連のすぐに取り出したくなるものを入れます。

  

PC収納スペース

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PC収納スペース
  • iPad
  • 携帯座布団
  • 衣類用圧縮袋
  • 雨具

ほとんど写真では何が入っているか分からないでしょうが、あると便利な小物を入れてます。

携帯座布団は地味に重要です。甲子園は炎天下なので、5分ほど席を空けただけでも、席はがっつり熱くなってしまいますし、長時間座るのでお尻も痛くなります。それを少しでも防いでくれるので、数年前に購入してから必ず持っていっています。

 

 

クーラーバッグ

続いてクーラーバッグです。

1日中甲子園にいるとなると熱中症対策は必須です。甲子園で都度飲み物を購入する、といったことも可能ですが、金銭的な負担を減らすためにもクーラーバッグを持っていっています。

リンクを探しましたが、見つかりませんでした。以前にコストコで購入した2Lペットボトルが6本ほど入るサイズのものを使っています。

(家から持っていくもの)

(現地で購入するもの)

  • ロックアイス×2
  • 水2L×3

 今年は家から持っていくものもありましたが、関西入りしてから購入することも可能です。

ロックアイスはコンビニで大きな袋に入っているものを2つ購入していますが、1日見るのであればひとりでこれだけ持っていれば十分かと。使い方にも寄りますが、第3試合終了くらいでおおよそ無くなりますが、そのころには暑さも和らぎます。(ロックアイスは保冷剤代わりとしても活躍してくれます。)

私はあまり現地でビールを飲まないですが、水もこれだけあれば十分です。

もしこれで足りなくなれば、甲子園でかちわり氷やドリンクを購入すればよいか、という量です。

何よりどんどん重くなっていくので、リュックも合わせると大人の男性でもこれ以上は頑張りたくない重さ界、という感じです。

 

 

小さなバッグ

甲子園で観戦を始めてからすべての荷物を持って移動するのは難しいので小さなバッグに小物を入れて持ち運びます。※置き引きには十分注意してください。

小さなバッグには「さっ」と取り出したいものを入れています。

  • 顔拭きシート
  • 体拭きシート
  • ミニファン
  • 財布
  • 日焼け止め
  • 制汗剤(ボールタイプ)
  • イヤフォン
  • テレビ視聴用チューナー

 

 

大体こんな感じです。

甲子園で1日中観戦しようとすると、かなりの体力を消費します。

熱中症対策を金額で抑えながらしようと思うとなかなか大変ですが、倒れてしまっては元も子もないので、十分な対策をしながら楽しんでください!

 

では。

 

「文学」と「現代小説」の違い

先日フランス人の人と話をしていたところ、文学作品の話題になりました。

夏目漱石太宰治森鴎外など幅広い作者について話しましたが、フランス人の彼から驚きの一言がありました。

「日本人相手に文学の話をしたことはあるけれど、ここまで話せる相手はいなかった。」

私が驚いたのは、私と接する前に接した日本人では文学の話ができなかった、という点です。

 

というのも、私自身も文学作品を多く読んでいたわけでもないですし、上に挙げた人たちでさえも各作者1冊~2冊程度しか読んだことが無いレベルの知識なので、文学を愛する人たちから比べれば、はるかにレベルは劣ります。にもかかわらず、その程度でフランス人の方からそういった反応が来るとは。。。というのが私が驚いた根源です。

(ちなみに、フランス人の彼と話した言語は日本語なので、言語の壁はないです。)

 

ちなみに私は、マンガ以外には読書と呼べる読書はしないまま大学に入学しましたが、読書をしていないという危機感は持ちながら生活をしていました。

そこで一念発起で読書しよう!と思い立ち、読書=小説=文学というイメージが高校時代についていたので、文学作品(宮沢賢治夏目漱石太宰治森鴎外川端康成三島由紀夫等)を1年間ほど読んでみた、という感じです。

その後、読書には文学以外もたくさん存在することに気づき、現代小説(東野圭吾)を読んでみたら、その読みやすさに驚いた、という記憶が鮮明に残っています。

それ以降は、文学はあまり読まずに現代小説を中心に読んでいます。

 

そんな程度の私ですが、どうやら普通の日本人よりは文学に詳しいようなので、ライト文学読者の私が感じている文学と現代小説の違いを今日はお話したいと思います。

  

 

まず、文学と現代小説の大きな違いは「読みやすさ」でしょう。

読みやすさと一言で言っても、様々な種類が存在しますが、単純に日本語としての読みやすさが大きく違います。

文学は、作者の生きていた年代によっても異なりますが、漢文・古文を主体としていると思わせるような表現が多々あるため、今の私たちからすると非常に読むのに疲れます。

小説を読むときには、文字⇒映像へ変換しながら読むと思うのですが、その変換に時間を非常に要する、と言い換えてもいいです。

その点現代小説は、今の時代に合わせた表現なので非常に読みやすく、文字⇒映像への変換はたやすいです。(もちろん、普段どれだけ文字に触れているかに寄りますが)

ここで文学を挫折してしまう人は多くいるような気がします。

 

次に、物語としての面白さです。

私が感じているのは、文学は干物、現代小説はガム、みたいな感じということです。

文学の世界観は、上記の読みやすさの問題もあり、とっつきにくく、ストーリーとして面白さを感じにくいと思っています。しかし、じっくりと読み進めていけば、物語全体でのメッセージや随所にみられる表現には「をかし」な感覚です。(その観点において、芥川龍之介太宰治は好きです。)

一方で、現代小説はエンターテイメント性が高く、次の展開が気になるようなストーリーです。次の1ページを開きたくなるような仕掛けが随所に凝らしてあり、寝る間を惜しんで読みたくなるのは現代小説です。映画のようなスピード感を感じながら読み進められるのは現代小説の特徴ではないかと思います。

上記のような違いを感じているため、

  • 読むのは多少苦痛が伴うけど、じわじわと楽しめる文学=干物
  • パッと楽しめるエンターテイメント性のある現代小説=ガム

のような感じで私は捉えています。

 

 

これらの特徴は、小説の世界だけでなく、マンガの世界も同じでは?と思っています。

マンガの世界は小説と比較して歴史が浅いため、文学のような作品は多くないのですが、マンガの祖である手塚治虫作品には文学に通ずる感覚を持っています。

手塚作品は、コマ割りやストーリー展開等、今と比較すると正直読みやすいとは言い難いと思います(少なくとも私には)。しかし、どのマンガもメッセージ性が強く、今読んでも感じさせられるものが多い良質な作品が多く残っています。

一方で、今の漫画は映画のような感じで、エンターテイメント性は高いのですが、メッセージ性は手塚作品の時代と比べると、そこまで強くはないと感じます。

 

こういった創作品が、すべからくこのような流れとなるのかは不明ですが、小説とマンガで同じような流れを辿っているのは、興味深いと感じました。

もちろん、どちらが良い!という話ではないのですが、普段エンターテイメント性の高い最近の作品に触れる機会がどうしても多くなりがちなので、含蓄を多く含んだ過去の作品たちを読んでみよう、と考えるきっかけになりました。

 

みなさんの好きな作品、読んでみたい作品はなんでしょうか? 

蜘蛛の糸

蜘蛛の糸

 
走れメロス

走れメロス

 
手紙 (文春文庫)

手紙 (文春文庫)

 

では。

 

「なぜ」を使い分けることで思考の深堀を助ける。

以前に「なぜなぜ分析で陥りやすい誤った問いの立て方」というエントリを書きましたが、もう少しこれらについて考えてみたので、今日はそのお話です。 

dewahisashi.hatenablog.com

 このエントリ内では、いわゆるトヨタ生産方式で問いかけられる「なぜ」にフォーカスしていたので、以下のような形で結論付けています。

〇:なぜ起きるのか?は課題の原因を深掘る。
×:なぜ問題なのか?は課題の重要度を測る。
×:なぜそう言えるのか?は問題の裏付けをする。

 しかし、後半二つの「なぜ」も適切な使いどころがあり、目的に応じて使い分けると非常に効果的なものとなります。

というか、これらの使い分けができない限り生産性の高い仕事はできない!といえると思います。

では、早速後半二つの使い方を考えてみたいと思います。

 

なぜ問題なのか?

この問いを以前のエントリでは以下のように説明しています。

この問いは「課題がなぜ課題として認識されるのか」という課題設定そのものに対する疑問をつぶすための問いです。

これをもう少し深堀していきたいと思います。

そもそも仕事で発生する課題・問題が発生すると、それを解消しながらビジネスを回していきます。

その際の前提として、課題(=イシュー)が適切に設定されている必要があります

誤った課題(イシュー)を設定してしまうと、どんなに素晴らしい解決策を作り出し、実行したとしても本当に解決したい問題は解消されません。

つまり、最初に設定するイシューの質が非常に重要ということです。 

例えば、「友人に彼女が半年間いない」という事実を課題だと感じた人が、「友人に彼女を作るためにはどうしたらよいか。」というイシューを設定したとします。

このイシューから導き出される解決策は、「身だしなみを整える」「会話が続くようなコミュニケーション力をつける」といったものとなります。

しかし、「彼女がいない」という事実に対して、当人が課題だと思っていない場合(=彼女が必要じゃない等)、どんなに良い解決策を出したとしても意味がありません。 

上記のようなケースはビジネスにおいても頻繁にあります。

ある事象を課題だと思っている人もいれば、そうじゃない人もいるような場合、慎重にイシューを設定する必要があります。

このような時には「なぜ問題なのか?」という問いは有効になります。

設定しているイシューを疑う目を持つために、その事象ががなぜ問題であり、なぜ解決しなければいけないのかを深堀して考える問いが、「なぜ問題なのか?」です。

イシュー設定を誤るとその後の解決策を検討・実行する時間が無駄になり、生産性は非常に落ちます。それを防ぐために有効な質問がこの質問です。

なお、イシューの大切さや設定する方法について詳しく書いている名著に「イシューから始めよ」という本があるので、全ビジネスパーソンが読むことをお勧めします。 

イシューからはじめよ――知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ――知的生産の「シンプルな本質」

 

 

なぜそう言えるのか?

これは以前のエントリでは以下のように説明しています。

これは問題がなぜ問題だと言い切ることができるのか、を裏付けするときには有効 

部下がいるとイメージしやすいのですが、部下が何らかの課題を感じて自分のところに持ってきたとします。その時に使うのがこの問いです。

あるいは、なんらか結論らしいものを部下が持ってきたときに、何を以てそう言っているのかを確認するときに有効です。

例えば、子どもから、みんなが持っているからおもちゃを買ってほしい!と訴えてきたときに、「みんなって誰?」と聞かれた・聞き返された経験を持つ人は多いでしょう。

「みんなって誰?」を言い換えると「なぜ”みんな”が持っている、と言えるのか?」となります。

ここで使っている思考が、「なぜそう言えるのか」と合致します。

小難しい表現を使えば、演繹法帰納法・ピラミッドストラクチャーを使う際に必要となる「なぜ」は、この「なぜ」です。

カエルの子どもはおたまじゃくしである。

「なぜそう言えるのか」

⇒1.〇〇カエルの子どもはおたまじゃくしだから。 

 2.××カエルの子どもはオタマジャクシだから。

 3.△△カエルの子どもはオタマジャクシだから。

このようにある結論にたどり着いた思考過程を遡って確認する・根拠を確認する際に使うのが「なぜそう言えるのか」という問いです。

ITリテラシーの必要性を訴えられてから久しく、世の中が伝えていることを鵜呑みにする人は多くないと思いますが、その際に「本当?」と疑った先にある問いがこの問いです。

 

このように様々な用途に合わせた「なぜ」があり、世の中一般では「なぜ」としか表現されないので使い方を間違えると誤った結論にたどり着くので、前回+今回のエントリが皆さんの参考になればと思います。

 

dewahisashi.hatenablog.com

では。 

Nintendo Switch Liteから見えたゲーム機戦略の変化

Nintendo Switchの携帯専用バージョンの本体が発表になりました。

www.nintendo.co.jp

 

Nintendo Switchが発売になった時にも衝撃を覚えましたが、この発表の感想としては「やっぱり、そうなったか。」です。

じゃあ、なんで「やっぱり」と思ったかというと、以前のエントリで述べた

dewahisashi.hatenablog.com 

大人の間には携帯電話が普及し始め、一家に一台の電話⇒一人に一台の電話、という変化が起きている一方で、子どもの間では一家に一台のゲーム⇒一人に一台のゲーム、という変化が起きていました  

 という箇所と合致するからです。

据え置き機さえも一人一台の時代にしようとする任天堂の考えが読み取れます。

一方で、Nintendo 3DSはかなり消極的になっているので、もはや据え置き機と携帯機の区別をなくそうとしているのでしょう。

 

このあたりの変化をもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

 

これまでは「据え置き機:ファミコン・プレステ等」と「携帯機:ゲームボーイ・DS・PS Vita等」という区別がありました。

基本的には、

  • 据え置き機=家でしかできないけど良いスペックのゲーム機
  • 携帯機=携帯できる分、据え置き機にスペックは劣る

といった区別がされてきました。

ゲームボーイのころは、ファミコンはカラー画面だけどゲームボーイは白黒画面といった違いがあり、非常に分かりやすかったです。

しかし、技術の進歩によって据え置き機でしか実現できなかったようなスペックのゲームが携帯機でもできるようになっていきました

 

それと時を同じくして、ゲーム(据え置き機+携帯機)の競合が変わっていきます。

従来は、ゲームの競合は他社のゲームであり、いかにして売るかを考えるときには他社をいかにして上回るか、を考えていたと思います。(もちろん、ボードゲームといったテレビ画面以外の競合ゲームもありましたが、あまり意識してなかったでしょう。)

しかし、スマホでゲームができるようになったことで、これまでのゲーム(据え置き機+携帯機)の競合は、たった数年でスマホになりました。

つまり、据え置き機と同じようなスペックのゲームを携帯機でもできるようになりましたが、普段持ち歩くスマホでも同じようなことができるようになってしまったので、ゲーム機自体の存在意義を考える必要性に迫られたわけです。

※課金モデルが変わったことも特徴的ですが、ここでは割愛します。

 

そこで、ゲーム機側がスマホに勝る要素を挙げるとすれば、以下の要素です。

  • ゲームをしやすい形(コントローラー・処理能力等)になっている。

うーん、正直それ以外には思いつかないです。。。

スマホはゲーム専用機ではないので、コントローラーは付属してないですし、それ用の設備を付けられるわけでもありません。

逆に言えば、その点に特化した戦略を取ったのがNintendo Switchということでしょう。

 

スマホが明確に出ており、

  • スマホよりも見やすい画面サイズで色もキレイ
  • スマホよりも操作しやすいコントローラー付き
  • スマホではできない据え置き機⇔携帯機の行き来ができる

みたいな要素が特徴として出ています。

また、Nintendo Laboのような体験型のコンテンツと組み合わせたあたりは、スマホではできないことを実現しているので、さすが任天堂といった感じです。

www.nintendo.co.jp

このようにスマホとの差別化を図りながら、ゲーム機を購入する意味を消費者が理解できるようにしているのが任天堂の戦略なのだと思います。

 

プレステについては細かく触れませんが、Sonyも同じようにスマホとの差別化は考えているはずです。おそらく、スマホでは到達できないようなスペック(処理速度やグラフィック性能)で勝負しているのが、プレステでは?と私は考えています。

 

そういったところから、任天堂はゲーム初心者~中級者くらいを対象にしたビジネスを展開し、Sonyはゲーム中級者~上級者を対象にしたビジネスを展開している、という違いも感じます。

 

長く触れ合ってきたゲームですが、大人になった今、少し目線を変えてみると非常に面白いなぁ、と思います。

直近の悩みどころは4年ぶりに発売される「プロ野球スピリッツ」をPS4とPS Vitaのいずれで購入するか、なのですが。。。(正直Nintendo Switchで出てほしかった。。。)

 では。

勉強の目的って何だろうか。妄想しながら考えてみる。

少し前に出ていた記事なのですが、これを読んで勉強の目的を考えました。

president.jp

私が受験した時もそうでしたし、最近の話を聞いていても同じ印象なのですが、「勉強=志望する学校へ入学するためのツール」としか考えられていないと思います。

勉強をすれば良い高校・大学に進学ができて、良い企業に就職できるよ!といった話を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。

この話は・・・ 勉強=良い企業に就職するためのツールであり、勉強の目的は良い企業に入ることだ!と同義だと思います。 

たしかに勉強をすることによって(世間が言う)良い学校に進学すれば、その後の人生の選択肢が広がる可能性はあります。

ですが、必ずしも世間でいう良い学校には入れれば、その後の人生が幸せに安泰に送っていける、というわけではない点には注意が必要です。

 

では、「勉強の目的って何?何のために勉強ってするの?」と自分の子どもに問われたときにはどう答えるでしょうか?

多くの人は、上で書いたような回答をしている気がします。

ですが、上の回答はある意味では思考停止してしまっていて、それ以外の目的を考えていないから出している、という側面もあるかと思います。

改めて勉強の目的を考えてみたいと思います。

 

私がこういった解の無いテーマを考えるときには、その物事の根源を考えます。

ということで、今回も「勉強」の根源を掘りながら「勉強の目的」を考えてみます。

 

==ここからは全て妄想です==

勉強の根源は、やはり狩猟方法や木の実の収集方法、生活の仕方等を親から子どもに教えていくことから始めたのではないか、と想像します。

何も教わっていない子どもが大人になった場合、狩猟の仕方が分からず餓死するというのは目に見えています。そのため、親⇒子どもに教えます。これを子ども側の視点に立つと狩猟の仕方を「勉強」している、と言えます。

これは動物の世界においても同様なので、おそらく間違いないかと。

つまり、この時代の勉強の目的は「自分が生きるため」です。

 

その後、人類は文字を発明したことによって口頭以外での知識の伝承ができるようになりました。また、口頭での伝承から脱却することで、遠く離れた人へも伝えることができるようになりました。

そのため親⇒子ども以外の学習の手段が生まれ、子どもが学習することのできる幅が非常に広がりました。

おそらくこの頃には、効率的な食糧調達方法に加え、医学(占い?)・歴史といった学問に通ずるようなものも生まれてきたと予想されます。

ここまで来ると「未来にわたって人類が生きるため」に勉強の位置づけは変わっています。(もちろん、自分が生きるため、というのが第1の目的でしょうが。)

 

そこから、学問を追求する人は以下の2つに分かれていったと思います。

  • より効率的に人類が生き続けるために追求する人
  • 世の中にある不思議な事象を説明しようとする人

 この2種類は今にも続いていると思います。

 

一般人にとっては上記の2つなんてどうでもいい、というのが正直なところかと。「生きるため」というのが勉強の目的です。

しかし、生き方にも様々な種類が生まれてきました。特に貨幣制度の発展に伴い、貧富の差が明らかになっていき、人の間で優劣が見える化されました。

そうなると親としては、少しでも有利な(=人よりも優れた)状態で子どもには生きてほしい、と願うでしょう。

その結果、勉強をする目的が「子どもが有利な状態で生きられるため」に変化しました。

 

では、優劣の”優”の立場の人の視点、特に使用者側の視点で考えると、自分が雇う人は良い人であってほしいと考えるのは普通です。

従って、自分が雇う際の条件を決めていくことになります。初期段階においては肉体労働が基本なので「体が丈夫な人」「若い人」「指示された内容が理解でき、行動できる人」といった条件でしょうか。一方で、ホワイトカラー的な職業においては、中国の科挙試験のようなものでの成績上位な人といった条件を付けていたことは予想されます。

結果的に親が子どもに伝えるのは大きく以下の2つに分かれます。

  • 肉体労働で働きぬける頑丈な子どもを産み、その労働をさせてあげたい!
  • 科挙試験に合格できるように塾でも何でも入れて合格させてあげたい!

どちらも根源にあるのは「生きられるのは最低条件として、できれば優劣の”優”に入れるような子どもにしてあげたい」という親心です。

この後者が今の勉強の目的の始まりではないかと予想します。「科挙に合格できること=今後の人生をいい感じで歩めること」になり、今の考え方に近しいものです。

 

この点で重要なのは、この時点で「科挙に合格する」ことが目的となっているので、もはや科挙で何を学ぶか自体はどうでもよくなっています。

以前の勉強においては「学ぶこと=生きるためのツールを手に入れること」なので、何を学ぶのかは非常に重要でした。(陸に生きているのに、海の狩猟方法を知っても意味がない、とか。)つまり、勉強する内容に意味があった、ということです。

一方で、科挙時代では「学ぶこと=合格するため」なので、もはや学ぶ内容は何でもよくて、科挙に合格さえすれば内容なんてなんでもOKな時代になりました。

それゆえ、勉強の目的が短絡化してしまい、学んでいる内容そのものに対して意味を問われても答えられない時代が始まったと予想されます。

 

 

ここまで考えてきて感じるのは、もしかしたら今勉強している内容自体に意味なんてないのかも、ということです。

勉強はツールである、という冒頭に挙げた考え方は正しくて、勉強することに意味はあるけれど、勉強している内容に意味はない、ということです。

ただ、内容に意味があるとすれば、上述した「生きられるのは最低条件として、できれば優劣の”優”に入れるような子どもにしてあげたい」という親心の、「生きられる」という条件を満たすための勉強だけかもしれないです。(今の日本に照らし合わせれば、読み書きがある程度できる、四則演算ができる、とか)

 

まとめると、勉強する目的は2つある。

  1. 自分が生きるため。
  2. 優劣の”優”に入るため

それぞれの目的に提供できる学習内容は、ある程度共通的に教えられるのは1の目的まで。

世の中の価値観が多様化している今の時代においては優劣をつけることが困難なので2の目的については共通化できない。

といった結論な気がしています。

 

冒頭に挙げた「勉強の目的って何?何のために勉強ってするの?」に対しては、

「基本的なことは生きるために勉強する。あとはお前次第。」

 

さ、思ったよりアバウトな結論になりましたが、みなさんはどう考えますか?

では。

偏差値ってどう決まるのか。

学校のレベルを測る基準としての偏差値はどうやって決まるのだろうか、と疑問に思ったので、少し考えてみる。

 

偏差値の定義はWikipedia先生によると以下の通り。

ある数値がサンプルの中でどれくらいの位置にいるかを表した無次元数平均値が50、標準偏差が10となるように標本変数を規格化したものである。

分かるか分からないかギリギリのラインの表現です。

早い話、「その試験を受けた人の中でどのくらいの位置か」を表すものです。

ただし、これには前提があって、試験でのスコア分布に偏りがないことが前提となります。(100点満点のテストにおいて、50点付近に一番多くの受験者のスコアが集まり、50点以上・50点未満のいずれも100点・0点に近づくにつれて、少なくなっていくような山を描く必要があります。)

まー、今回は偏差値がなんぞや、ということを考えたいわけではないので、これ以上は割愛します。

 

で、大学ごとに偏差値って出ていますが、それってどうやって決まるのかな、と。

 

そもそもなのですが、偏差値って入学するうえでの学力の目安でしかない、という点が肝だと思います。

学校に入学してから卒業するまでの学力の向上度合いや進学先・就職先については偏差値には全く関係がない、ということを理解しておく必要があります。

 

また、偏差値は試験スコアの分布を表しており、試験難易度を表しているわけではない、という点も重要です。

受験時に利用される偏差値は、その学校に入学できる学生が、同一学年において相対的にどの位置にいるのかを表現しているだけです。(極端な話、他国において偏差値30と表現された学生が、別国に行けば偏差値70になる可能性もある、ということ。)

絶対的な能力を測る数値として偏差値は使えず、あくまでも相対的なものである点に注意が必要です。

 

では、学校側の視点、学生(親)側の視点、塾の視点のそれぞれで偏差値の決定要因を考えてみたいと思います。

 

学校側の視点

新規で作る学校であれば偏差値は決まっていないし、既存の学校であれば偏差値は決まっています。

いずれにせよまずやるべきは、どんな学生(=どのレベルの学生)に入学してもらいたいか、を考えることです。

そのためには、学校のポジショニングを考える必要があり、どういった社会的要求に答えるのかを深く考える必要があります。(既存学校であればすでに決まっていることも多いでしょうが。)

それに基づいて、入学試験では入学NGとなる下限条件を設定することが必要です。(本来であれば、求める学生像から乖離している学生は入学OKとすべきではないので、下限条件だけでなく上限条件も設けることが必要です。要は、無茶苦茶優秀な学生を入れない、という選択肢を持つ、ということです。)

 

そうすることで、ターゲット学生と試験内容に関連が生まれ、学校側が作る試験難易度が決まります。

ここで大切なのは、学校側は偏差値をコントロールできない、という点です。

(学校側が適切に学生を振るい落としていけば、ある程度コントロールできるかもしれないですが、狙っている学生が受験してくれるかどうかは別の話)

あくまでも、ターゲットとなる学生を定め、その学生らを評価できる試験問題を準備することまでしか学校側はコントロールできない、ということです。

地方自治体によっては学校側が問題を作れないケースもあるかと思います。

 

学生(親)の視点

現在の教育においては、学生は自身が行きたい学校を偏差値を参考にして進学先を選択しています。

もちろん、先進的な親や子どもであれば、偏差値以外の要素も使って進学先を選択しています。また、工業高校や商業高校、高専などの一領域に特化したような学校においては、(偏差値の影響もゼロではありませんが)偏差値以外の要素で進学先を選択しています。

では、偏差値に比重を置いて進学先を選択する場合について言及しますが、結論は簡単です。

自分の偏差値=学校の偏差値となるような進学先を選択します。

もちろんできるだけ頭のいい学校(=偏差値の高い学校)に行ってほしいと願うのが親心で、そのためには自分の偏差値をできるだけ上げてあげたい、と願うのが親です。

このような形で、学生(親)は偏差値の消費者(ユーザー)です。

偏差値は基本的に学校・塾から与えられるものであり、それを使うのが学生(親)という構図になります。(なので、学校や塾は偏差値を気にします。)

 

塾の視点

塾は、学校と生徒を結びつけるハブ機能を持っています。

短絡的な視点で言えば、塾の仕事は相対的に有利な立ち位置となるよう学生の学力を上げることが目的ですが、その学生が希望する学校に進学できるようにすることが本来のゴールでありその支援をするのが塾の役割のはずです。

そのためには、学生が相対的にどの位置にいるのかを明確にし、どの学校がその学生にとってマッチするのかを明確にする必要があります。

従って、塾の仕事で大切なのは、

  • 学生の相対的立ち位置を明確にする(=学生の偏差値を可視化する)
  • 学校の相対的立ち位置を明確にする(=学校の偏差値を可視化する)
  • その二つをマッチさせる

ということに尽きます。

大手の塾(河合塾代々木ゼミナール等)では、自分たちの模試を学生に受けさせます。(収益の確保という側面もあるでしょうが。)

(おそらく)その模試の結果を用いて、学生と学校の偏差値を付けます。

それにより、学生自身はどの学校を受験すれば進学できる可能性が高いのか低いのかを把握することが可能になります。

つまり、偏差値は塾が提供した模試を通じて学生・学校の偏差値を決定する。ということではないかと。

 

まとめ

受験者が毎年変わる以上、必ず偏差値は変わっていきます。

それに本来の偏差値という意味では、模試での結果を使った偏差値ではなく、試験当日の受験者と問題で学生・学校の偏差値を算出すべきなのですが、試験が終わった後に偏差値を気にする人はいないので、純然たる偏差値は誰も算出していません。

そんな偏差値に惑わされることなく、自分たちがやりたいことを実現できるような社会が作れる方が私は価値があると思いますが、いろいろな価値観や考え方があるので、すぐには変わらないでしょう。

そんな考え方を少しずつでも変えていけたらいいな、と思うので、ここでの情報発信や別場での活動をしていこうと思っています。

なお、ここで述べている内容は事実というわけではなく、私が考えただけの内容なので、その点はご注意ください。

 

では!