「旅の恥は掻き捨て」と言いますが、それを真に受けて私は旅行をします。
独りで旅行に行くときにはパッケージプランは使わず、往復の飛行機だけ確保して、あとは現地に着いてから心と体のおもむくままに自由に旅行することが好きです。(いわゆるバックパッカー的な旅行です。)
大学時代には、両親から「どこに行く予定なの?」と聞かれましたが、「分からない」というのが答えなのです。なぜなら、確保済みの飛行機以外、自分もどこに向かうのか分かっていないから。
そんな旅行を愛する人は数多くいますし、「旅行」じゃなくて「旅」なんだ!と強くこだわりを持っている人も多くいます。(個人的にはどっちでもいいけど。)
私がそんな旅行の仕方を好きな理由は、お金を払ってもできない経験を得られるからです。
旅行先では目に見えるところから一歩踏み込むと違った景色が多く見えます。
初めて行った海外旅行は19歳の時でしたが、ラオスで現地の方の家にお邪魔して初めて「レディーボーイ」とお会いした衝撃は今でも心に残っています。(日本ではそこまでオープンになっていなかったので。)
また、別の旅行(こちらもラオス)では、現地の人の家にホームステイさせてもらい、向こうはラオス語しか話せず、英語も通じない状況だったので、全力で伝えたい気持ちを日本語に載せて話していたら意外と通じた!という経験から、言語を超えるコミュニケーションがあることも知りました。
もちろん、そういった旅行にはリスクが伴うので、一見すればアブない体験かもしれません。(私は偶然安全に過ごすことができましたが。)
が、そういった経験を経たからこそ、日本にいただけでは分からない・見えない・知ることができない世界を見ることができたと思います。
インドは1か月の旅行でしたが、最後の訪問地はコルカタでした。
コルカタの前で経験した内容は以下のエントリをご覧ください。
コルカタへ移動する電車に乗るために、駅までオートリキシャ―(トゥクトゥク・タクシーのインド版)に乗りながら、歌を歌っていました。それも結構な大声で。
オートリキシャ―のスピード感や解放感も相まって、ものすごく楽しかったので、コルカタに着いた時には歌を歌いたくてしょうがなくなり、コルカタでは歌を歌おう!と決めました。
また、せっかくならド派手に歌ってみたい、という衝動にも駆られ、「リキシャ―(インド版の人力車)」に乗りながら歌うことでストリートパフォーマンス的な感じでやってみよう!と思い立ちました。
ストリートパフォーマンスですから、チップももらう必要があるし、そのためには宣伝も必要になります。なので、同じ宿泊先の人に声をかけてメンバーを集めました。
開催時の役割分担も決め、実行当日・・・
まずは自分を載せて走ってくれるリキシャ―の運転手を探します。
暇をしていそうな運転手に声をかけ、交渉に入ります。
「俺たちが今からリキシャ―の上で1時間、歌を歌って、お金を稼ぐから、その稼いだお金を1:1で分けよう!たくさん稼ぐのに協力してくれれば、お前もたくさん稼げるぞ!」
「いやいや、お前らが稼げるわけないんだから、100ルピーくれれば1時間一緒に回ってやる。それ以外は、いやだ。」
「違う!俺たちはお前と一緒に夢を見たいんだよ。インドの人たちが日本人が始めた謎のパフォーマンスをどう捉えてくれるのか。これはギャンブルかもしれないけど、夢にかけよう!」
「いやいや、無理だよ。100ルピーは譲れない。」
「うーん、仕方ない。じゃあ、100ルピーでお願いするよ。」
こんな調子で運転手は決まりました。あとは、実行するだけです。
コルカタの中心街をリキシャ―に乗りながら、私は歌を歌い続けました。
仲間は、宣伝をしてくれたり、チップを集めてくれたり、と。
ある仲間は、「He has a dream!!」とキング牧師ばりの宣伝をしてくれました。
歌っているのは全部J-POPで、伴奏もないのでアカペラ状態です。(イヤホンで歌を聴きながら、その歌を口に出すという、なんとも即興な感じです。)
そんなパフォーマンスにも関わらず、インドの人たちは面白がってくれて、チップは集まり、中にはリキシャ―の後ろをついて回ってくる若者たちもいました。
1時間ほど歌い、リキシャ―の運転手との約束の時間が来たので、パフォーマンスは終わりました。
さすがに1時間もやっていると、私の声は枯れ、仲間たちも疲れの様子がありましたが、チップは全部で600ルピーほど集まり、私の旅行では1日200ルピーあれば生活できたので、かなりの金額感でした。
とはいえ、もともと歌をド派手に歌いたいだけで、お金を稼ぐことが目的でパフォーマンスをやったわけではないので、私の仲間も同意で、運転手にすべてを渡しました。
その後、街を歩いていると、私は町のちょっとした有名人になっていて、よく分からない日本人がなんか面白いことやってた、と声をかけてくれる人が多くいました。(客引きではないです)
私たちも実行したこと自体にもインドの人の反応にも満足し、夜は盛大に飲み会を開催しました。
飲み会も終わり、ゲストハウスに帰る途中に、またインド人のおじさんから声をかけられました。
「今日、昼間にリキシャ―の上でパフォーマンスをしていたやつか?」
「そうですよ!」
「面白かったよ、あのパフォーマンス。俺もお前たちにチップを渡したよ。笑
ところで、集めたお金はどうしたんだい?」「結局、協力してくれたリキシャ―の運転手に全部上げたよ。」
「なんだ、自分たちで使わなかったんだ。なんぜ運転手にあげたんだい?」
「もともと100ルピー上げることは約束していたし、俺たちはお金を稼ぐつもりじゃなかったから、1時間頑張ってくれたリキシャ―の運転手にあげることにしたんだ。」
「そうか、、、それはちょっと残念だ。。」
「えっ、なんで?」
「リキシャ―の運転手はインドの中では貧しい人たちとは言えない。貧しい人たちって、お前たちも見てきただろうけど、道でお金を求めてるような人たちなんだよ。インドは難しい社会で、一回あそこに行ってしまうと浮上するキッカケがない。だから、俺はお前たちが集めたお金をどこに使うのか、そういった人たちに使うのか、興味があった。」
この話を聞いて、ハッとしました。
自分たちはリキシャ―の運転手と稼げるかどうかを”賭け”ていました。
一方で、おじさんは自分たちがどこにお金を使うのかを”賭け”ていました。
おじさんの言う使い方が正しいかどうかは分からないですが、おじさんの言っていることは正しいと思いました。
自分たちの目線だけで、楽しむためにお金を稼ごうとしていた自分たちですが、そのお金の使い方に期待をしている人たちがいるということは全く考えていませんでした。
むしろ、自分たちで使うことなく、インドの人たちに還元しているので、いいことをした!くらいの感覚で捉えていました。
しかし、お金を渡してくれた人たちは自分たちのお金を日本人預けることで、そのお金がどう使われるのかを期待してくれていました。
なぜ、そんな風に期待をかけてくれていたのかは分かりません。変な奴らだから、何かしてくれる、という期待を抱かせたのかもしれません。
この体験から、お金を受け取るということは、使い方も含めた期待を受けとる行為なのだと強く体感しました。
もちろん、バイト等を通じてお金を稼ぐ経験はしていましたが、稼いだお金の使い方に指摘をもらうことなんてありませんでした。この件も自分たちが動いたことで集めたお金なので、指摘をもらうこともなかったはずなのですが、偶然にも非常に深い学びを得ることができました。
この時のお金の使い方は期待されていたものと違ったかもしれないですが、学んだ今であれば、意識した使い方をすることは可能です。
この時のお金の使い方は反省をしましたが、思い付きでも歌ってみて本当に良かったです。自分が積極的に動かなければ、こういう経験・学びを得られませんでした。
お金を払ってもできない経験。
これこそが旅行の醍醐味だと私は思っています。
では。