でわひさしの日記

世の中、教育、仕事、趣味などに関して、日々感じたこと・考えたことをつらつらと。

「あたらしいしょうがっこうのつくりかた」を読んだ感想

以前に、日本初のイエナプランスクール(大日向小学校)の開校式に行ってきた、という記事を書きましたが、その小学校が作られていく過程を書いた本を読みました。 

 大日向小学校のHPはこちら

 

以前にMakuakeでプロジェクト化されており、それに申込んでいました。

www.makuake.com

 

2冊申込んでいたものが届いたので、さっそく読んでみました。

作者の想いを正確に伝えられないため、一部引用はしますが、書籍の細かな内容は記載しません。
(内容が気になる方には申し訳ないです。)

今回は、これを読んだ私の感想を中心に書きます。

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届いた書籍の写真


開校を祝う会に参加させてもらったことからわかるように、私自身もこの学校にはわずかばかり関与しており、今回の書籍化は楽しみにしていました。

”わずかばかり”というのが肝で、私は本当に一部しか学校が作られる過程を知らないため、その前後に何があったのか、どんな想いがあって作られたのか、といったことを知ることを、非常に楽しみにしながら、本書を読み始めました。

 

 

一番強く感じたことは、

学校を作り上げることへの想い・熱量の大きさ

でした。

 

本には、

  • 著者の経歴(イエナプランとの関り等)
  • イエナプランとは何か
  • 学校建設に至るプロセス・大変なポイント(特に地域との関り)

といったことが書かれているのですが、全章を通じて感じたのが想いの大きさです。

 

「自らの出身地じゃない場所に、小学校を作り上げる。」という一見すると無謀に思え、実際にやってみると非常に困難な取組を遂行していくためには、想い・熱量が大きくないと成し遂げられないのだ、と言い換えることが可能です。

私もプロジェクト実行・推進を生業として働いているので、一般的な社会人と比べると一日の長がありますが、学校を作り上げることを一つのプロジェクトとして見た時に、求められる能力は大きく違う、と感じました。

 

私のような仕事で求められる能力は、ゴールを定義したり、スケジュールを引いたり、品質を高めたり(基準を下回らないようにしたり)、予定通りにプロジェクトを進めていくような能力で、「スキル」に該当するものだと思います。

一方で、今回のような大きな取り組みを実現する時には、多くの人を動かしていく必要があります。本書でも

一人で学校を作ることはできない 

と述べられ取り、学校内部の関係者・関わる業者・佐久穂町の行政・佐久穂町の地域の人たちなどとの関わりなくして学校はできず、多くの人を動かす必要があります。

そんな人たちを巻き込み・動かしていき・実現にたどり着くためには、想いの大きさが必要なのだと感じました。それを平たく言ってしまえば、「マインド」に該当するものだと思います。

スキルとマインド(あるいはマネジメントとリーダーシップ)のような表現を使うと、すごく薄っぺらい気がしてしまいますが、私が感じたのはマインドの大きさ・発信することの大切さです。これを無くして、複数の関係者を巻き込んでいくことは不可能だったのだろうと想像されます。

もはや想い・熱量が多ければ、細かいスキルなんてどうでもいいじゃん!と思うくらいに、何かを成し遂げたいという強い想いが大事だと感じさせられました。

 

本の感想とは少し外れてしまいますが、私個人として、強い想いを持つ必要性は、今年に入ってから感じることが多々あります。

不思議とそういう出来事が自分の中で重なり、本書からも同じように感じたのは、何かのきっかけかな、と。

 

 

次に、学校を新しく作る情報が詰まった本が世の中に出たことのは非常に価値が高い、と思います。

学校が新しく設立されることはありますが、その中でどんなことが行われているのかが説明されているものは多くありません。設立する人にとっては、1度きりのことなので、次の人に向けて知識・経験を残しておこうと考える人が少ないことが原因だと思います。

じゃあ、口伝で伝えていけばいいじゃんという話なのですが、学校設立の経験者も多くない実情を考えると、本書は新しく学校を作る人たち向けのガイドラインになると思います。(現在50歳以上くらいの人たちだと、若かりし頃に新しくできた学校に入学した経験を持つ方は多いようですが、さすがに作ったことはない。)

事実、学校設立にあたってのタスクを一覧化しようと思い、参考情報を集めた時期があるのですが、なかなか参考となるものが見つかりませんでした。

書籍のタイトルがそれなので、この価値は当たり前なのかもしれないですが、これまで当たり前にありそうな参考情報が多く出回っていなかったことを考えると、この書籍は有難い情報が集約されたものだと思います。

 

 

最後に、設立時には地域を本当に大切にする必要がある、ということを感じました。
(一つ目の内容とやや重なりますが。)

大日向小学校を作った方々が共通して、地域との関係を非常に大切にする、と考えていることが書籍を通して伝わってきます。

それを無くして大日向小学校は設立できなかった、というメッセージにも受け取れます。

本書の中にも

「学校が地域から無くなる」ということは、地域がだんだんと小さくなっていくことにつながり、それくらい「学校」という存在は地域に大きな影響を与えてしまうものだ

という記述があり、学校周辺地域に対する責任感を背負って、学校づくりに携わられたのではないかと感じます。

学校の役割は、学校にいる生徒への学力向上のみならず、地域コミュニティづくりにも一躍買っていたことを、改めて感じました。

 

 

今回この書籍を読んで感じた大きなポイントは、こんなところです。

イエナプラン・新しい学校づくり・大日向小学校のことなどが書かれているので、興味がある方は、ぜひ読んでみてください。

あたらしいしょうがっこうのつくりかた

あたらしいしょうがっこうのつくりかた

 

 

参考:日本イエナプラン協会

www.japanjenaplan.org

では。

全能感と無能感のどちらも感じながら、バランスを取りつづけるのが教師ではなかろうか。

最近ニュースも少し鎮静化してきましたが、神戸市の小学校で教員間によるいじめが明るみに出ました。

oricoma.com

www.fnn.jp

 

教師という立場でありながら・・・というか、人としてどうなのか?を疑いたくなるような内容で、正直このブログにリンクを貼ることすらためらわれるような事件です。

こんなことを平然とやり続けているからには、それなりの理由があったのでしょう。あったからと言ってその理由(言い訳)に興味もないのですが、なにより被害者が不憫でなりません。

ましてやそんな教師を見て育ってしまった子たちも同様に被害者です。

 

 

ここまでひどいことをしていた神経は、全くもって私には理解できないのですが、教師という職業は結構危うい職業だと感じています。

危ういと言っても今回のような事件を引き起こすような危うさではなく、精神的なバランスを保つのが難しいという意味での危うさです。

この記事を読む全員にお伝えしておきたいのですが、今回の事件を起こすような危うさを教師が抱えているとは思っていません。今回の事件を起こす危うさは、教師という職業ではなく、組織・個人に依存するところが非常に大きいと感じています。

しかし、教師という職業をある角度から見てみると、1/10000くらいは動機が見える気もします。

ということで、教師という職業の精神的なバランスとは何を指すのかを述べていきます。

 

 

教師は、教師になった1年目でも、すぐに教える立場になる、という点が特徴的です。

通常の会社であれば新入社員1年目がいきなり誰かに教えることはほとんどなく、まずは教えられる立場として仕事を学んでいき、自立してきたらようやく教える立場になる、という感じです。そのため教える立場になるまでには早くても1年、長ければ数年かかる、というのが学校以外の常識かと思います。

教師がすぐに教える立場になる、こと自体を否定するつもりはありません。それが職業であり、教えることができる能力があると認められたからこそ、教師になれたのです。

もちろん、メンターとなる先輩教師が新人教師にはついたりするでしょうが、授業内容や生徒と接する様子を事細かにチェックしてくれて、常にアドバイスをくれるような状態になるとは考えにくいです。(先輩社員も担当を持っているケースがほとんど。)

さらに教える内容は授業内容だけに留まらず「生活指導」 という名目で、生徒の生活にまで言及し、生徒を人として成長させることまで教師には期待が及びます。(親との線引きがよく問題になっていますが)

これらの点が教師の特徴的なポイントで、

自分よりも人生経験が劣る学生を相手に、
知識や人としての在り方を教え続ける

という稀有なことを新人のうちからやり続けます。それが教師という職業です。

 

これによって教師を選択した人に芽生える全能感はいかほどでしょうか。

学生を相手に考えると常に強い立場にあり、一方的に指導し続ける、というのは、かなり特殊な状況であることは間違いないでしょう。

ましてや会社等と比べると、先輩・上司から指導が入る回数も少ないことが予想されるため、なかなか意識を是正しにくいことも予想されます。(私自身が教師経験があるわけではないので、想像ではありますが。)

 

 

しかし、まったく反対のことも教師に対して考えることがあります。

つまり、教師ほど無能感を味わい続ける職業はないのではないか、ということです。

教師がどれだけ熱心に誠意を持って学生に学習・生活指導をしたところで、学生が変わるかどうかは学生次第です。

教師は、学生が変わる(主に成長する)ためのサポートはできるけど、変わらせることはできません。

下手すれば、常にぬかに釘状態が続き、自分はいったい何のために教えてるの?みたいな状態になりかねないと思います。

教えることがミッションだけど、期待されるのは成長させることである教師にとって、「学生が変わらない」という事実は、無能感をどれほど与えるものでしょうか。

 

 

教師は、学生を相手にしているがゆえに全能感も無能感も味わう職業ではないかと私は考えます。

また、その全能感と無能感のバランスをうまくとることこそが、精神的なバランスを保つ秘訣ではないかと思っています。

 

学校の先生と接していると感じることがあるのですが、

全能感に寄っている先生は、大人に対しても少し横柄な対応を取っています。

もちろん普段子どもとばかり接しているので、癖付いているところもあるでしょうが、全教師がそうなっていないことを考えると、人によるのでしょう。

一方で、無能感に寄っている先生は、学生を良くしたいという気持ちが薄まっていることがあります。

おそらく、心の底では「良くしたい!」と思っているのでしょうが、そんなに甘くない、、、といった気持ちが全身から表出しています。

 

この全能感と無能感のバランスを取り続けることこそ、教師が精神的なバランスを取る肝だと考えます。

ただし、ここで言及しているのはあくまでも「対学生」という視点のみです。「対教師」「対保護者」といった観点を入れ始めると、精神的疲労度は増すでしょう。

また、教師は肉体的な疲労も大きくあるため、こちらはこちらで対処が必要です。

問題が生じると毎回行われるよく分からないアンケートの数々で日々の工数が奪われ、本来割きたい「対学生」の工数をねん出できず、残業するしかなくなったりしている現状もあります。

 

また、一般企業にいると全く理解できないアナログな事務作業の応酬で、教師の工数を奪っている様には、もはや驚きを通り越して感嘆の声を上げるほどです。

そもそも教師という職業に就く人は、大学まで出た人がそのまま教師になるケースがほとんどです。

ちょろっとデータを調べたくらいでは数値が特定できませんでしたが、転職して教師になるという人に比べて、新卒で教師になる人の方が圧倒的に多いと思います。

教師は社会を知らずに教師をやっているため、世の中との乖離が起きていても気づきにくいです。

転職してくる人が多い職場であれば、自身が転職せずとも外の世界を知る機会もありますが、学校ではそうもいきません。転勤も6年に1回という程度で、結局転勤先も外の世界を知らない人ばかり。

 

 

少し話がそれてしまいましたが、教師という職業の特殊性から、以上のようなことが言えるのではないかと考えました。

 

今回の内容については、これまで接してきた教師の話やわずかなデータをもとに、自分の頭で考えた内容でほとんどなので、正直的外れかもしれません。

しかし、全能感を感じすぎたり、無能感を感じすぎたりしてしまうことで、精神的なバランスが取れなくなる、ということが教師に起きるかもしれない、ということは、今後教員を目指す人には、ぜひとも知ってもらいたいと考えました。

教員を目指す人であれば、こういった感じで物事をそれぞれが自分なりに考え続けて、より良い教育の在り方をいっしょに考えていきたいです。

 

では。

思考を「見える化」することの大切さ。日本語力を高めよう。

前回に引き続き「思考系」シリーズです。前回のエントリはこちら。 dewahisashi.hatenablog.com

 

前回は考えることとは何か(What)について言及しましたが、それだけ分かっても「考えられる」ようにはなりません。

「考えられるようになる」とは、すなわち方法(How)を体得することが必須です。

 

しかし、「考える」という行動時代が抽象的な概念であるため、「考える」ということを適切にHow-Toとして表現できているツールに巡り合ったことはありません。

コンサルという職業柄、考えるための方法をいろいろと探してきましたが、なかなか難しいというのが実感です。

例えば以下のようなもの、考えるためのツールとして広く世の中に知られています。

  • ピラミッドストラクチャー
  • ロジックツリー
  • マンダラチャート
  • マインドマップ
  • フィッシュボーンチャート

などです。

 

これらのツールが具体的なツールの名称であるのに対して、もう少し抽象度を上げた表現を使って考える方法を説明することもあります。

  • ロジカルシンキング(論理思考)
  • ラテラルシンキング(水平思考)
  • デザイン思考
  • メッセージシンキング
  • シナリオシンキング
  • 仮設思考

などです。

もっと抽象度を上げていくと「左脳思考」「右脳思考」みたいな感じになります。

 

これらの考えるためのツールは、あくまでも考えるためのサポートに過ぎない、ということを念頭に置いてもらいたいと思いますが、使いこなせるようになれば強力です。

 

しかし、どのツールを使いこなすためにも必須となる能力があります。

それが本記事のタイトルにもあるような「思考の見える化能力です。

(今回、ひらめき力のようなものは、対象から外します。すいません。) 

 

 

これができるとできないのでは考える質に雲泥の差が出ます。

また、考えた結果を相手に説明する際にもこれができると非常に強力です。

一応補足しますが、後者は非常に重要です。

考えた結果が価値があるかを決めるのは自分ではなく周りの人です。そのため、考えた結果やプロセスを相手に説明ができなければ、価値があるかどうかを相手が考えることすらできません。

 

 

まず、なぜ思考の見える化が大切なのか、という点に触れていきます。

これを理解してもらうためには、反対の状況から考えていくと分かりやすいです。

つまり、「考えることが苦手な人は何ができていないのか」ということから考えます。

ただし、この際の前提として、経験を含む情報は十分に持っており、いわゆる通常の思考力は持っている人を想定します。

 

考えることが苦手な人は、全てを「なんとなく」で考え続けます。

 

例えば、ある飲食店の売上が低迷している原因を特定しようとする場合、

 売上 = 単価 × 顧客数

こういった式で表現されることはおおよその人が理解しており、単価もしくは顧客数のどちらが下落したのかを見極めて、下落の大きな方に真因があると定め、対策を打つ。

そういった感じです。

仮に単価が落ちている場合、

 単価 = メイン料理単価 + サイド料理単価

のような形で深堀していき原因を特定していきます。

 

 

ここまでに違和感を感じましたでしょうか?

もし何も感じなかったのであれば、「なんとなく」考えているということです。

 

上記の例で言えば、「単価」とは何を指しているでしょうか?

  • その飲食店で販売しているメニューのすべての平均単価
  • お客さんが注文してくれたメニューの平均単価

少なくともどちらなのかを意識しておく必要があります。

この場合、無意識で後者を選択しているケースがほとんどだと思いますが、それを適切に言語化しない状態で考え続けると、気づいたら前者になっていた、なんてことが起きます。

議論している最中に考えていたことが変わっていってしまう人は、こういった言語化の「ゆるさ」を残したまま考えている人です。

 

また、「顧客数」の「顧客」も気をつける必要があります。

飲食店(=レストラン)であれば、お店に入った人=注文・購入してくれた人でしょうが、これが衣料店になった瞬間、お店に入った人≒注文・購入してくれた人になります。

どちらを差すのか明確にしたほうが、思考にブレが出ないため安全です。(この例であれば、「購入者一人あたりの注文平均単価」や「購入者数」といった表現を使ったほうが良いです。)

 

ここまで例示してきましたが、考えることが苦手な人は「何を考えているのかがはっきりしなくなる」状態が起きます。それを避けるためには、可能な限り「言語化」することが必要です。

言語化といっても難しく考える必要はなく、できるだけ正確に表現することを心掛ければよいです。まずはその意識を持つだけで、考えることに実像が伴います。

 

また、考えることが苦手な人は、自分の使っている表現の「ゆるさ」に気づきません。

(「ゆるさ」に気づくことができていれば、そもそも「ゆるく」なりにくいです。)

先ほどの「顧客数」を例にとると、

  • お店に足を踏み入れた人の数
  • お店で商品を購入してくれた人の数

上記の2つを明確に区別できるようになるためには、「顧客」を具体的にイメージしてみる必要があります。

なんとなく「顧客」と言うのではなく、どういったお客さんを「顧客」と呼ぶのか、お客さんの行動をイメージしながら考えると容易になります。

 

商品を購入するまでには、いくつものステップがあります。

  1. お店を知る
  2. お店に入る
  3. 商品を選ぶ
  4. 商品を購入する

歩行者としては上記のステップを経ない限りは商品購入にはたどり着きません。(ECの場合は違いますが。)

このステップをイメージできれば、どれを「顧客」とするかを選択するだけです。

1・3を顧客と呼ぶことも可能ではありますが、計測することが困難なため、実質的には選択不可能です。

従って、計測可能な2・4のいずれかを「顧客」と呼ぶことになります。あとは目的に応じて選択するだけです。

 

このような形で考えると同時に「見える化」していきます。

 

 

ここまでの内容をまとめます。

 

また、自分の考えを見える化するためには、(口頭含む)文字・文章に頼る以外の方法はありません。(脳内を透視する仕組みがあれば別ですが。)

絵を使って自分の考えていることを全て伝えきれるのであれば、絵の能力を最大限向上させることが良いかもしれないです。

しかし、大多数の人にとって絵だけで表現することは困難です。特に抽象的な話になればなるほど絵での表現は難しくなります。また、精緻に表現しようとすると、文章と比較して時間もかかります。(簡単な内容であれば絵に描いてしまったほうが早いこともあります。)

 

そのため、文章・言語を活用するのが現実的であり、実際世の中はそう動いています。

できるだけ正確に自分の考えていることを表現する力を身に着けることで、思考力も向上していくと考えます。

そのためには、日本語力を身に着ける必要があります。(母国語が日本語であれば)

自分が何を考えていて、それを具体的に表現する能力は、すなわち日本語力です。

 

 

極端に言えば、日本語力を向上させることが思考力の向上につながる、と言えます。

思考の見える化の大切さや日本語力の大切さが伝われば何よりです。

ということで、最後に日本語力向上のおすすめ本を紹介して終わります。 

文章力の基本

文章力の基本

 

↑とりあえず1冊読むなら、読みやすいのでおすすめです。 

 

【新版】日本語の作文技術 (朝日文庫)

【新版】日本語の作文技術 (朝日文庫)

 

 ↑少し難解な内容を表現する力を身に着けたい人におすすめです。 

 

20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社新書)

20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社新書)

 

 ↑ 1文ごとの文章力の品質が上がった人におすすめです。

 

では。

学校の授業じゃ「思考力」なんて伸びるわけがない。

前回書いたのが8月で、そこから気づいたら数か月経っていました。

その間、世の中は台風15号・19号によって甚大な被害が起きました。スポーツ界では、世界陸上・バスケットボールのW杯・世界柔道・バレーボールのW杯・体操の世界選手権・プロ野球クライマックスシリーズラグビーのW杯等、ちょっと考えられないくらい一気にいろいろなイベントがありました。(継続中のものも。)

 

一方、自分自身においては、サンフランシスコへの出張があり、世界観が広がる経験を積むことができました。この話もどこかでしたいと思います。

また、思考系の研修講師を担当していたのですが、その中で、いくつかの気づきを得ることもできましたので、その話もどこかでしたいと思います。

 

今回は思考系の研修をする中で「考える」ってなんだろう?とふと思いました。

みなさんも「もっとよく考えろ!」とか、言われた経験はないですか?

そんなことだけ言われたところで、「考える」ということが分かっていなければ、一生問題は解消されません。(まー、そうやって言う人も何も考えずに言ってる可能性がありますが。)

 

ということで、自分なりに少し踏み込んで「考える」ということを考えてみました。

 

 

以前、「結果を出すために必要なこと」というエントリを書きました。 

dewahisashi.hatenablog.com

 

結果を出すためには、結果を出すためのプロセスがあり、そのプロセスとは以下のプロセスである、と述べました。

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結果を出すためのプロセス

ここでも「思考」が大切だ!と言っていますが、私自身も特に考えずに「思考」が大切だ!と言っていた、と気づけました。笑

 

また、これまでも何回か「思考」に着目してエントリを書いてきましたが、そもそも「思考」自体について考えたことが無かったなぁ、と改めて自戒しております。

dewahisashi.hatenablog.com

dewahisashi.hatenablog.com

 

 

 

では、ようやく本題ですが、

 

みなさん「考える」ってなんだと思いますか?

「考える」を他の言葉で言いかえると何ですか?

 

 

 

「考えること」って、親・学校等から教えてもらってきている気がするようで、実は「考えること」自体を教えてもらった経験はないのではないかと思います。

例えば、学校で

  • 文字
  • 足し算・引き算・割り算・掛け算
  • 歴史

みたいなことを教えてもらってきたと思います。

 

そして、皆さんの感覚の中には、授業で教えられてきたことを分類すると

  • 考えない系(=歴史とかの単純記憶系)の内容
  • 考える系(=数学や現代文のような記憶に頼れない系)の内容

が学校の授業内容だったという感覚がある気がしています。

 

 

間違いではないと思います。

が、私の感覚としては、学校で教えられている授業内容で、考える系のものは無い!と考えています。

この感覚のズレを説明するためには、私の考えている「考える」の説明が必要だと思います。

 

 

結構平凡な答えになってしまうのですが、

考えること

= ある課題に対する「意見」を導き出すプロセスのこと

だと捉えています。

 

これと学校が教えている授業内容との違いですが、

授業で指す「考えること」
= ある課題に対する「解」を導き出すプロセスのこと

だと捉えています。

 

この違いは大きいです。

学校の授業においては「解」を導き出せる問題を学生に与え、学生は「解」を導き出す訓練をします。その際、大きな前提にあるのは「解」は必ずあるということです。

その授業を受け続けた学生は、「解」があることを前提として世の中の問題・課題と向き合うため、自分の意見を導くのではなく、解を求める動きをします。

 

大人であれば誰でも知っている「世の中には解が無い課題もある」という当たり前のことを、授業内容だけでは学ぶことなく、社会に出ていくことになります。

実際の世の中では、解かどうか分からないけれど、いろいろ考えた結果、一番確からしい方法を選択することは多々あります。

その「一番確からしい方法」(=意見)を提示するための力が「思考力」です。

解があるかどうかも分からない中で、様々な情報を組み合わせたりしながら自分なりに得られた結論こそ、自分の意見であり、それが導き出すプロセスが「思考」です。

 

 

では、今の授業内容で思考力を伸ばすことはできるでしょうか?

答えは当然、無理です。

「解があることを前提とした」授業・テストを行っている限りは、解を求めてしまいます。

また、解の精度によって成績をつけているということは、解のある問題に対して、正しい解を導き出す能力が高い人が高い評価を受ける、ということです。

ここでのポイントは、正しい解とは言えないものの、自分なりの考えを提示したところで全く評価されない、ということと同義という点です。

自分の意見を導き出す能力よりも、解に近しいことを導き出せる人の方が評価される、ということなので、その発想を変えない限りは、学校の授業で思考力なんて伸びません。

 

では、今の学校で「思考力」が伸びないか?と問いを直すと、、、

答えは、可能、と考えています。

学校生活を送るうえでは様々な課題が生徒自身にも突き付けられます。

  • 成績を伸ばすためにどうしたらよいか?
  • 友人と仲良くするためにはどうしたらよいか?
  • 部活でレギュラーを取るためにはどうしたらよいか?

こういった課題は「授業」とは別のところで生徒に突き付けられます。

そして、これらの課題に対して解はありません。なので、生徒は自然と思考力を身に着けていくことができます。(厳密には道徳の授業でも、思考力は伸びる可能性があります。)

 

 

授業で思考力が伸びなくても、学校生活で身につくなら、今の学校のままでいいじゃん?

 

 

皆さんは、どう考えますか?

 

では。

高校野球物語を消費する大人たち。高校野球はいったい何なのか。

令和初となる第101回目の夏の高校野球全国大会が履正社高校の初優勝で終わりました。

今年の夏は大船渡高校の佐々木投手が岩手県大会の決勝戦を登板回避させた監督の決断には賛否両論が吹き荒れました。大船渡高校には佐々木投手を登板させなかったことに対するクレームの電話が鳴り響いた、ということまであったそうです。

number.bunshun.jp

その中で出てくる論調は主に以下の2つです。

  • 賛成派
    高校野球はあくまでも教育の一環なのだから、将来を考えるとケガをさせることがないようにするのが第一で、決勝戦までの球数が多くなっていたのだからケガしないようにするためにも、今回の決断は英断である。
  • 反対派
    決勝で佐々木投手が投げることで甲子園に行けたかもしれないのに、投げさせないのは何事か。

ネット・TVを問わずこの議論が行われ、賛成派⇒反対派に対しては「結局自分たちが佐々木投手を甲子園で見たいだけだろ!高校野球は、そこで生まれる物語を大人が消費するためにあるわけではない!」といった形で、反対派に対する攻撃がされました。

世の中で1つのテーマでこんなに議論される機会はあんまりないなーと傍観者として興味深く見ていましたが、今更ながら、この件で考えていたことがあったので、お話したいと思います。

いろいろ書く前に私の考えを結論付けておきます。

大船渡高校の考え方に外部が口を出すべきではないので、高校の決断には賛成です。

 

では、本題に入りたいと思います。

部活動の位置づけを把握している人っていますか?

この件の議論をするにあたって、それぞれの人が考える「部活動」の定義がずれているなーと思ってました。プロ・アマのどちらの論者も多く現れましたが、部活動を国がどう位置付けているのかを考えている(調べた)人はいませんでした。

なんとなくそれぞれの人が思っている部活動像はあるのですが、それに基づいて学校の運営が行われているわけではないので、その根源から解き明かしていく必要があります。(実態が根源と乖離しているケースは当然あるでしょうが。)

 

部活動は高校向けの学習指導要領では以下のような記載があります。

教育課程外の学校教育活動と教育課程の関連が図られるように留意するものとする。

特に,生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化,科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等,学校教育が目指す資質・能力の育成に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。

その際,学校や地域の実態に応じ,地域の人々の協力,社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行い,持続可能な運営体制が整えられるようにするものとする。

解釈の仕方はいろいろありそうな気がしますが、少し文章を読み解くと、以下のようなことを言っています。

部活動とは、生徒の自主的、自発的な参加により行われる学習意欲の向上や責任感・連帯感を育み、学校教育が目指す能力の育成を助けるものである。
そのうえで、周りの人(地域・教員)は持続可能となるような体制を整えなさい。

「俺の部活動」を振りかざす前に、まずはこれをベースにして議論をしないと始まりません。

こうなると前半と後半の文章で、それぞれの論点が生まれそうです。

  1. (前半)高校野球の教育における立ち位置とは。
  2. (後半)「持続可能」な部活のためにどうしたらよいか。

1つ目の論点は、高校野球はあくまでも教育目的で行われるのだから、甲子園を目指すことに必死になる必要があるかないか、といった議論につながります。

2つ目の論点は、今回のような議論のときに部活動が廃止となってしまっては、学習指導要領の求める状態にはならないため、問題・課題が起きる前後に何をするべきか、という論点です。

 

高校野球の教育における立ち位置とは。

もう一度、定義(っぽいもの)を見てみましょう。

部活動とは、生徒の自主的、自発的な参加により行われる学習意欲の向上や責任感・連帯感を育み、学校教育が目指す能力の育成を助けるものである。

 つまり、部活動は「学習意欲の向上や責任感・連帯感を育み、学校教育が目指す能力を育成する」というのが目的です。

ここまでしか部活動について学習指導要領では述べていない、というのがポイントです。

学校教育が目指す能力については、学習指導要領をさらに読み込むことで真相に近づけそうな気がしますが、これが部活動=高校野球の学校教育における位置づけです。

そして、さらに言えば学習指導要領上で目指す能力の育成を、外部の人(監督・コーチ等)の支援を許容しているので、現場でも理解が不十分なまま教育が行われている可能性があります。もちろんそれに統制を掛けるのは、支援を依頼している学校側です。

こんな感じなので、「俺の部活動・高校野球」がはびこっており、議論が散乱してしまいました。

 

しかし、ここで主語を考えると「俺の部活動」にはなりえません。部活動を提供しているのは「学校」です。

学校なので文部科学省の出しているガイドラインには準拠したうえで、明文化されているかどうかは不明ですが「学校の考える部活動・高校野球」をサービスとして提供しています。

そしてそれを受け入れる人たちが生徒としてその学校のサービスを受けます。

 

「持続可能」な部活のためにどうしたらよいか。

今回大船渡高校にクレームを入れた人は、そういう状態だということを理解してないか、理解しているけど賛成論者の言うように「消費物」としてしか高校野球を見れない人だと思います。

そもそも、学校に入学している時点で学校が考える高校野球を受け入れることは決まっています。なので、今回の学校の決断に対して外部の人がクレームを入れること自体、誤っているのです。なぜなら、学校と生徒の間での教育サービスは合意を得ている内容なので。

今回の騒動は、それを学校側が早々にマスコミに説明してしまえば、外部は口出しすることができません。それ以上騒ぐ人がいた場合も、その人たちだけがおかしい、と思われて終了。(実際、それに近い状態で扱われています。)

また、学校が考えている内容をどこまで言語化し、開示できているかは不明なので、発表したくてもできていない可能性があるのですが。。。

 

今回の件でクレームを入れるのはおかしな話。

最後に、関係を整理して、結論にたどり着きたいと思います。

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高校野球を取り巻く関係整理

ここで言う「外部の人」は私たちのような高校野球を楽しんでいる人たちです。

たしかにこの図の右側の人=大人たちは、高校野球消費財として提供・受領する関係にあります。が、同時に理解するべきなのは、そういった関係を学校側も利用しているところがあるという点です。

公立学校においては、必ずしも広告を求めていない可能性はありますが、大人の社会に学校も確実に加わっていることを伝えたいです。

そして、同時に着目するべきなのは、学校の内部で行われる教育については、学校と生徒(+親)のみの関係で完結しているという点です。

上で述べたように、学校で行われる教育は、学習指導要領をガイドにして学校が教育モデルを作り上げたうえで、サービスとして生徒に提供されています。

その中に高校野球が、外部の目に触れやすい形で含まれているだけであり、本質は高校教育の一環で、その内容はすでに生徒・親と合意が取られている内容です。ケガをどう考えるかも「学校が考える高校野球」に含まれているということです。

以上の関係から、高校野球において(学校から教育支援を依頼された)監督の采配について、外部の人間がとやかく言うのは誤っていることが言えます。

 

まとめ

以上のことから、冒頭で申し上げたように
大船渡高校の考え方に外部が口を出すべきではないので、高校の決断には賛成。
と私は考えています。

こういったテーマではありますが、少しでも世の中が教育に関心を向けてくれるというのは、良いことだと思います。高校野球は教育の一環だけどドラマ性を世の中が求めている、という実態は、議論が起き続けるテーマだと思います。

ケガをするプロセスは科学的に証明されつつあるようですが、人としての正しい成長を証明するプロセスは現時点で明らかになっていないですし、これからも科学的に証明されることはないでしょう。

従って、高校野球に関する議論は起き続けると思いますが、そのたびにみんなが教育・部活動といったテーマを考えることにこそ、意味があるような気がします。

では。

自由研究を難しく考えすぎでは?題材・テーマより大切なことってあるじゃん。

社会人には特段関係のない話題ですが、8月も終わりに近づき学校の世界では夏休みが終わろうとしています。

そんな時期だからか、自由研究の記事が挙がっていました。

www.news-postseven.com

私自身が小学生の時には、自由研究の宿題を課された記憶がなく、自由研究に困ったという経験はないのですが、小学生くらいの親世代と話をしていると何をやらせて良いのか分からないので困る、という話を聞きます。

私の経験とも一致するので、記事にあるような自由研究を手っ取り早く済ませるためのキットを購入し、子どもにやらせる、と親が考えてしまうのは理解できます。

親側の考え方には、「それでいいや」と思っている人もいれば「仕方ないけどこれでいこう」と思っている人もいると思います。

前者の人はさておき、後者の人からすれば

「せっかく自由研究という思考力を育む機会があるにも関わらず、それをやらせないなんて思考力成長の機会損失だ!」

なーんて言われても、

「分かってるよ。これだけが宿題じゃないんだし、終わらせることを優先するためには、仕方ないんだよ。」

というのが本音な気がしています。

 

でも、自由研究ってそんなに難しくない、ってことを今日はお伝えしたいと思います。

 

なんで自由研究が難しいと思ってしまうのか。

そもそも「難しい」と感じなければ、そんなに心理的なハードルが上がって、手を付けるのが遅れる、なんてことは起きないわけです。

じゃあ、なんで自由研究=難しいってイメージになるのか。

 

やることが決まってないから。

 「自由」に「研究」した結果を報告としてまとめる、って大学等では当たり前に行われていることだと思うのですが、「自由であること」も「研究すること」のどちらも難しく感じさせる要素だと思います。

 

「自由」だと考えられない。

自由って素晴らしいことですが、自由とは、自分がどこに向くのかを決めるのが自分になるということです。

例えば、朝顔の観察をレポートとしてまとめてください。って言われれば、親は頭を悩ませることはないでしょう。

が、何でもいいから自由に研究していいよ、と言われると、何をしてよいのか分からなくなります。

学校教育は、学習指導要領(制約)に従って授業を行い、学校から課された宿題(制約)をこなしながら、学力をつけていきます。また、学力測定も、一定の範囲(制約)からテスト問題は作成され、それに答えられるかどうかを基に行います。

そのため、基本的には「制約」を与えられながら学力向上に努めるのが学校の仕組みです。

その仕組みに慣れてしまっているため、制約のない「自由」を与えられた途端に、何をしてよいのか分からず、思考停止が起きてしまっています。

それは子どものみならず親も同じなので、親も一緒になって何をしてよいか分からないからキットを購入しよう!と思考停止な判断に陥ってしまいます。

それが、自由研究を難しく感じてしまう一因です。

 

「研究」何かよく分かってないから、難しく考えすぎる。

「研究」という単語は非常に難しそうなことをやらなければいけない、という気がします。

「研究」という言葉から、どんなイメージ(=映像)を思い浮かべますか?

化学者が試験管に何か入れて難しそうなことをやろうとしていたり、何かを顕微鏡で除きながらいろいろ調べている・・・

おそらくこんな感じじゃないでしょうか?

 研究って言葉が持つイメージからエジソンみたいなスゴイことを想像してしまい、逆に何をやれば良いのか分からなくなっている気がします。

また、親世代にも研究を経験したことの無い人が多くいると予想されます。

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年齢階層別の最終卒業学校の種類別人口比率

ガベージニュースから上記のデータは拝借いたしました。

これは2010年のデータなので現在(2019年)に当てはめる時には、+10歳くらいで考ると現在の親世代の最終学歴が分かります。

今の小学生の親世代は、20代~40代が多数を占めるでしょうが、今の20代の10年前のデータはあまり使えません。(2010年当時10代だったため、最終学歴が定まってないため。)従って、今の30代・40代だけが上記のデータが使えます。(このデータ上では、20代・30代が該当)

そのなかで大学を出ている人は以下の割合です。

  • 今の30代(データ上は20代):29.9%
  • 今の40代(データ上は30代):28.7%

高校までに「研究」を経験している人はほとんどいないと思うので、大学を経ている人が研究を経験していると仮定しても、3割弱しかいないことになります。また、大学に行ったからと言って研究した経験を持っているかは別物ですので、実際に研究を経験している人はさらに下がることが予想されます。

ここで言いたいのは、親も研究って何なのかよく分かってないってこと。(今の20代のデータはないですが、大きな傾向は変わらないでしょう。)

なので、研究という実態がつかめず、難しく考えすぎてしまい、何をしてよいのか分からなくなる、ということだと思います。

 

では、研究とはなにか。

このブログを頻繁によく読んでくれている方は想像がつくでしょうが、こういう時は根源にまずはアタックしてみるのが考えるキッカケになります。

[名](スル)物事を詳しく調べたり、深く考えたりして、事実や真理などを明らかにすること。また、その内容。(goo辞書)

はい。辞書にあたってみました。

「研究」自体はそこまで難しいことを言っているわけではないことが分かったと思います。しいて言えば「真理を明らかにする」は難しいことを想像させます。

じゃあ、真理とは・・・

いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。(goo辞書)

「変わることの無い正しい物事の筋道」とありますが、「変わることの無いこと」くらいの理解でとどめておきます。

2回ググってみただけで研究は以下のことだと分かりました。

物事を詳しく調べたり、深く考えたりすることで、事実や変わることの無いことを明らかにすること。

「事実を見つける」あるいは「変わることの無いこと」を明らかにするという目的を、「物事を詳しく調べたり、深く考えたりする」ことによって達成するとも言えます。

 

ここまで解釈が進めば、研究が難しいものではないことがわかるかと思います。

例えば、、、リンゴが木から落ちる、という現象を例にとります。

  1. リンゴの木を観察して、リンゴが木から落ちた。
  2. 机の上にあるティッシュ箱を観察して、ティッシュが机から落ちた。
  3. 雨を観察して、雨が空から地面に落ちた。

この3つの事実から、リンゴ・ティッシュ箱・雨を観察した結果、地球上ではモノが高いところから低いところに落ちるという事実を発見できました。

これは「研究」の定義に合致しています。これも研究といえる、ということです。

 

身近にあるものを観察したりすることで、十分に研究は行えるということです。

「研究」という言葉から抱く難しそうなイメージから、脱却できましたか?

 

じゃあ、どんあ研究テーマがあるのか。

まとめると自由研究の定義は以下となります。

特にテーマは定めないので、何らかの「事実を見つける」あるいは「変わることの無いこと」を明らかにするという目的を、「物事を詳しく調べたり、深く考えたりする」ことによって達成すること

「変わることがないこと」を証明するのは非常に難しいので、目的設定は「事実を見つける」というところに置いた方が難易度が低いと思います。

もう少し言えば、詳しく調べたり深く考えたりした結果、どんな事実を見つけたのか、を説明することは、自由研究での必須要素です。

例えば、朝顔の観察を例にとれば、

〇月 〇日 芽が出た

×月×日 花が咲いた

△月△日 種ができた 

こういった内容だけでは、「調べた」ことにはなりますが、調べた結果「事実を明らかにした」とは言い難いです。(細かな事実は明らかになっているのですが。)

大切なのは「調べた結果、何が事実として言えるのか」です。

この観察日記に「朝顔は芽⇒花⇒種という順序で成長する」という結論があればOKです。もし朝顔以外の花も同時に育てていれば、「花は芽⇒花⇒種という順序で成長する」と結論付けることも可能です。

 ここまで言えれば自由研究の定義に合致しています。

 

自由研究テーマの具体例

こういった感じで自由研究は進めていければ、特段難しいことはないです。

<理系:エネルギー>

  1. なんでも良いので傾斜を用意してください。(板とかをティッシュ箱に立てかける、でOK)
  2. 低い方に何でもいいのでモノを置いてください。(ティッシュ箱とか)
  3. 傾斜の高い方からモノ(チョロQでもボールでも何でもOK)を落として、低い方のものにぶつけてください。
  4. 傾斜の高さをちょっとずつ上げたり下げたりしながら、ぶつけられたものがどれだけ動くのかをチェックしてください。
  5. 高さとぶつけられた側の移動距離にどんな関係があるのかをまとめてください。

 

<文系:ラグビーW杯の出場国>

  1. 世界地図を用意してください。
  2. ラグビーW杯の出場国を世界地図上にマッピングしてください。
  3. マッピング結果から何が言えるのか・どんな傾向があるかを考えてください。
  4. なぜそういう結果なるのかを調べてみてください。

 

まとめ

こんな感じです。
お金なんかかけなくたって、自由研究って意外と簡単にできるんです。

もちろん、子どもがそれをやろうとすると、モチベーション的にも能力的にも難しいところはあると思いますが、自由研究については子どもではなく大人も分かってない、という事実を受け止める必要があります。

子どもができないことを大人のサポートによって伸ばしていくのが、教育だと思います。そのためには大人も学ばなければいけないときはあります。

学校が教えるべきこと・保護者が教えるべきこと、という境界線を作ることに意味はなく、子どもに足りないところがあるなら、それを補うのは「大人」の役目です。

それを、能力・時間を言い訳にして、子どもに適当に教えるのは危険であり、大人やるべき役割を果たせていないと感じます。

たかが夏休みの宿題の1つ、たかが自由研究ではありますが、それを手っ取り早く終わらせようとしていては、考える楽しさ・学ぶ楽しさ・成長する楽しさは放置され、やることだけが優先されるような印象を、今回冒頭に挙げたニュースからは以上のようなことを感じざるを得ませんでした。

私も含めた大人が一体となって、子どもが楽しいと感じながら成長することを支えられる世の中にしていければと思います。

では。

読解力が低いということなので「読解力」の定義と伸ばし方を考えてみる。

遅ればせながら、「AI vs 教科書が読めない子どもたち」を読みました。 

 何度か読もうと試みては、仕事に追われたりして読了することができませんでしたが、改めて読んで良かったと思えました。

 

この本に書かれている内容

この本は大きく2つの構成になっています。

  • AIに対する理解を深めるパート
  • 日本人の読解力がいかに低いかを示すパート

前段で、世の中にあふれている「AI」に関する誤解を解きながら、本来のAIができること・できないことを丁寧に説明しています。

そのなかに、AIは意味を理解することができない、と説明があります。

例えば、
1.太郎さんは花子さんが好き
2.花子さんは太郎さんが好き

2つの文章が持つ意味は違うのですが、文節・単語に区切ると同じ要素を使っており、それを組み替えているだけで、AIにはその違いを理解することができない、ということです。

AIはプログラムでしかなく数学的に表現ができないことしか実現できないため、iPhoneのSiriのように会話をしているようなAIが出てきたとしても、インプットから論理的な計算に基づいてアウトプットしているだけで、意味を理解して会話しているわけではない、という説明もあります。

そのため、AIに仕事を奪われないようにするためには、人間しかできない「意味を理解する」ことが必ず求められます。

しかし、現代人は意味を理解する(=読解力)のレベルが低い、ということを、この本の「日本人の読解力がいかに低いかを示すパート」で証明しています。
(ちなみに、”日本人の”と限定していますが、他国の分析をしていないのでそう表現していますが、他国の読解力が高いかどうかは不明です。)

細かな数字は忘れてしまいましたが、統計的には国立大学の良いところに行っている人たちくらいしか読解力があると言えない、というレベルでした。(あくまでも統計なのでどこ出身であっても人によって読解力の高い/低いは変わります。)

どのようなテストを用いて読解力の多寡を測っているのかは、ぜひこの本を読んでいただきたいところです。

 

ここでは「じゃあ読解力って何なの?」という点をもう少し深堀して考えてみたいと思います。

また、この本では読解力の向上のさせる方法に科学的に証明された方法はない、と説明しており、例えば読書量は読解力に比例しないといった実例も出ています。

が、せっかくなので、どうしたら読解力が向上するのかも一緒に考えていこうと思います。

 

読解力って何?

こういう時には原理原則。まずは辞書にあたってみましょう。

文章を読み、その内容を理解すること。(Weblio辞書から引用)

 文字の意味のままでしたが、二つの内容が含まれていることが分かります。

  1. 読むこと
  2. 理解すること

おそらく普通に生活していると、「1.読む」と「2.理解する」は同時に行っていると思います。が、難しい本だと読んでいるのに頭に入ってこない、といった経験はお持ちかと思うので、やっぱり「1.読む」と「2.理解する」は別物なのだと思います。

そこで、それを分解して考えると、

  1. 読む=表示されている文章を認識することができること。
  2. 理解すること=認識した文章を映像化することができること。

だと思います。

1.読む=表示されている文章を認識することができること。

 文章自体を認識できない、なんてことはないとお思いかもしれないですが、例えばアラビア語タイ語みたいな言語は、日本人では認識することすら難しいと思います。どこで文字の区切りがあるのか、文節がどこで区切られているのかすら分からないと思います。

まずはこれをやれるかどうか、が読解のスタートなのだと思います。

日本においては初期教育がしっかりと行えているので、識字率(字を認識することができる割合)は高い水準(99%)にあり、読解力が低い原因がここにあるとは考えにくいです。

2.理解すること=認識した文章を映像化することができること。

次に該当するのはここで、ここに読解力の低さの原因があると考えています。

私は、人が何かを理解するためには映像に置き換える必要があると考えており、文章についてもそれと同じだと思います。

例えば小説だと、書いてある文章からどんな情景なのかを思い浮かべ、主人公がどんな感情でどんな動きをしているのかを映像にすることで理解を進めていくと思います。

また、日常会話の場合でも、体験したこと(=映像)を言語化(=文章化)して相手に伝えることで、相手は文章を頭の中で再構成し映像を思い浮かべながら理解していると思います。

理解する能力=映像化することができる能力、だと考えています。

抽象的な内容や自分が全く知らない世界の話になるほど映像化の難易度は上がっていくので、これを幅広くできる人が理解力が高い人なのだと思います。

ちなみに、読む/聞く側の話ばかりしてますが、相手が映像化しやすいように話す/文章を書くことが、分かりやすい話し方/文章の書き方の本質だと考えています。

 

読んで理解すれば読解力は十分か?

読解力は「読んで、理解する」だけでOKか、というと、そうじゃない気がします。

相手の表現していることを理解することができるのに、なぜかコミュニケーションがうまくいかない、という経験を持っている人は多いと思います。

真の読解力に求められる要素は「読んで、理解する」だけでなく、「なぜそれを相手が表現したか」まで慮れるかどうかだと思います。

文章を読み解く時よりも口頭で会話する時の方が意識が向きやすいと思いますが、表現された内容をそのまま理解するだけでは裏側にある文脈やその人の考え方を把握することは困難で、理解する時に思い浮かべる映像が誤ったものになる可能性があります。

そのため、コンサルとしてクライアントと対峙する際には、相対する人の所属部門や経歴等を把握することで、守りたいものや達成したいことを想像しながら、一つ一つの表現を受け取るように心がけています。

それができるようになると、相手の表現している内容を表面的に理解するレベルから相手の意図していることを深く理解できるレベルに変わり、1から5や10を理解するようなことができるようになってきます。

 

「読解力」を身に着けるためにはどうしたらよいか。

 ここまで読解力とは何か(What)を深堀して考えてきました。

まとめると、読解力とは以下の3つの要素で構成されます。

  1. 読む=表示されている文章を認識することができること。
  2. 理解すること=認識した文章を映像として理解できること。
  3. 表現の背景を意識する=なぜその表現を使うかに思いを馳せること。

「1.読む」は日本語であれば日本人の大多数はおおよそできているので特に問題ないでしょう。自分/相手の意図していることを適切に表現する単語を多く知った方がと思いますが。

問題は「2.理解すること」と「3.表現の背景を意識すること」です。

2.映像として理解する能力を上げるためには

文章⇒映像、映像⇒文章ということを繰り返し練習をするしかないと思います。

が、それを言っても仕方ないと思うので、おススメなのは小説を読んだ後に映像化された作品を見ることです。(自分が表現する能力に不足を感じている場合は、映像化された作品を見る⇒小説を読む・人に話す)

抽象的な概念の書籍を読もうと思ってもなかなか能力は向上していかないと思います。(なぜなら概念を映像として理解することは難しいので)

そのため、まずは映像化しやすい小説を読むことをお勧めします。ただし、ただ小説を読むだけでは映像化の訓練にはならないため、まずは小説を読みながらどういった情景なのかをイメージすることです。その答え合わせといってはなんですが、映像化された作品を見れば小説の表現と自分のイメージの乖離に気づくことができます。

この際、読解力不足で小説を読んでいても頭に入ってこない感じがあれば、まずは映像化された作品を見てみてください。その後、小説を読めば頭の中にある映像を頼りに小説を読み進めていくこともできるようになります。

従って、小説を頼りにして文章⇒映像、映像⇒文章を繰り返してみることが初手です。

慣れてきたら抽象的な概念について記述されている書籍に触れてみてください。

3.表現の背景を意識するためには

これを訓練するためには「なぜ?」を繰り返し自身に問い続けるしかありません。

  • なぜ相手は〇〇と言ったのか、言っているのか

必ず表現には、その人の考え方(大切にしたいこと等)が反映されます。そのため、相手の言っていることを額面通りに受け取らない(疑う、と同義)よう上の質問を自分に投げかけます。(聞ける状況であれば相手に聞いてしまってもOK)

経験がこの能力を向上させることもあると思いますが、相手の所属部門や経験してきたこと等を把握することによって想像が働きやすくなるので、その人が大切にしているポイントに意識を向けながらコミュニケーションをとると良いです。

 そのためには、会社を例にとれば、部門の目的・ミッション等の知識獲得が必須です。

 

まとめ

「読解力」をテーマに考え始めたので、最初は文章を中心に考えましたが、読解力は文章だけでなく発言も同じように求められるなと感じてきました。

また、コミュニケーションは受け取るだけでなく渡す側にも当然なります。

「読解力」=文章を読む、というテーマでしたが、文章だけじゃないし受け取るだけじゃない、つまりコミュニケーション能力につながるような話だと思います。

思わぬ長文になってしまいましたが、少しでもお役に立てればと思います。

 

なお、理解することを「映像化できるかどうか」と表現していますが、視覚的・聴覚的・体感覚的な認識方法がある、といった説明をNLPの本で読んだことがあります。(あまりNLPに詳しいわけではないので、あやふやですが。)

そのため、人によっては映像化ではなく、音にできるか、触覚に変換できるか、といった理解の方法があるのかもしれないです。(私が視覚的な理解をしているだけの可能性もあります。)

NLPの基本がわかりやすくまとめられている本がどれか分からないですが、いくつかリンクを貼っておきます。 

マンガでわかる!  すぐに使えるNLP

マンガでわかる! すぐに使えるNLP

 
マンガでやさしくわかるNLP

マンガでやさしくわかるNLP

 
手にとるようにNLPがわかる本

手にとるようにNLPがわかる本

 

 では。