でわひさしの日記

世の中、教育、仕事、趣味などに関して、日々感じたこと・考えたことをつらつらと。

全能感と無能感のどちらも感じながら、バランスを取りつづけるのが教師ではなかろうか。

最近ニュースも少し鎮静化してきましたが、神戸市の小学校で教員間によるいじめが明るみに出ました。

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教師という立場でありながら・・・というか、人としてどうなのか?を疑いたくなるような内容で、正直このブログにリンクを貼ることすらためらわれるような事件です。

こんなことを平然とやり続けているからには、それなりの理由があったのでしょう。あったからと言ってその理由(言い訳)に興味もないのですが、なにより被害者が不憫でなりません。

ましてやそんな教師を見て育ってしまった子たちも同様に被害者です。

 

 

ここまでひどいことをしていた神経は、全くもって私には理解できないのですが、教師という職業は結構危うい職業だと感じています。

危ういと言っても今回のような事件を引き起こすような危うさではなく、精神的なバランスを保つのが難しいという意味での危うさです。

この記事を読む全員にお伝えしておきたいのですが、今回の事件を起こすような危うさを教師が抱えているとは思っていません。今回の事件を起こす危うさは、教師という職業ではなく、組織・個人に依存するところが非常に大きいと感じています。

しかし、教師という職業をある角度から見てみると、1/10000くらいは動機が見える気もします。

ということで、教師という職業の精神的なバランスとは何を指すのかを述べていきます。

 

 

教師は、教師になった1年目でも、すぐに教える立場になる、という点が特徴的です。

通常の会社であれば新入社員1年目がいきなり誰かに教えることはほとんどなく、まずは教えられる立場として仕事を学んでいき、自立してきたらようやく教える立場になる、という感じです。そのため教える立場になるまでには早くても1年、長ければ数年かかる、というのが学校以外の常識かと思います。

教師がすぐに教える立場になる、こと自体を否定するつもりはありません。それが職業であり、教えることができる能力があると認められたからこそ、教師になれたのです。

もちろん、メンターとなる先輩教師が新人教師にはついたりするでしょうが、授業内容や生徒と接する様子を事細かにチェックしてくれて、常にアドバイスをくれるような状態になるとは考えにくいです。(先輩社員も担当を持っているケースがほとんど。)

さらに教える内容は授業内容だけに留まらず「生活指導」 という名目で、生徒の生活にまで言及し、生徒を人として成長させることまで教師には期待が及びます。(親との線引きがよく問題になっていますが)

これらの点が教師の特徴的なポイントで、

自分よりも人生経験が劣る学生を相手に、
知識や人としての在り方を教え続ける

という稀有なことを新人のうちからやり続けます。それが教師という職業です。

 

これによって教師を選択した人に芽生える全能感はいかほどでしょうか。

学生を相手に考えると常に強い立場にあり、一方的に指導し続ける、というのは、かなり特殊な状況であることは間違いないでしょう。

ましてや会社等と比べると、先輩・上司から指導が入る回数も少ないことが予想されるため、なかなか意識を是正しにくいことも予想されます。(私自身が教師経験があるわけではないので、想像ではありますが。)

 

 

しかし、まったく反対のことも教師に対して考えることがあります。

つまり、教師ほど無能感を味わい続ける職業はないのではないか、ということです。

教師がどれだけ熱心に誠意を持って学生に学習・生活指導をしたところで、学生が変わるかどうかは学生次第です。

教師は、学生が変わる(主に成長する)ためのサポートはできるけど、変わらせることはできません。

下手すれば、常にぬかに釘状態が続き、自分はいったい何のために教えてるの?みたいな状態になりかねないと思います。

教えることがミッションだけど、期待されるのは成長させることである教師にとって、「学生が変わらない」という事実は、無能感をどれほど与えるものでしょうか。

 

 

教師は、学生を相手にしているがゆえに全能感も無能感も味わう職業ではないかと私は考えます。

また、その全能感と無能感のバランスをうまくとることこそが、精神的なバランスを保つ秘訣ではないかと思っています。

 

学校の先生と接していると感じることがあるのですが、

全能感に寄っている先生は、大人に対しても少し横柄な対応を取っています。

もちろん普段子どもとばかり接しているので、癖付いているところもあるでしょうが、全教師がそうなっていないことを考えると、人によるのでしょう。

一方で、無能感に寄っている先生は、学生を良くしたいという気持ちが薄まっていることがあります。

おそらく、心の底では「良くしたい!」と思っているのでしょうが、そんなに甘くない、、、といった気持ちが全身から表出しています。

 

この全能感と無能感のバランスを取り続けることこそ、教師が精神的なバランスを取る肝だと考えます。

ただし、ここで言及しているのはあくまでも「対学生」という視点のみです。「対教師」「対保護者」といった観点を入れ始めると、精神的疲労度は増すでしょう。

また、教師は肉体的な疲労も大きくあるため、こちらはこちらで対処が必要です。

問題が生じると毎回行われるよく分からないアンケートの数々で日々の工数が奪われ、本来割きたい「対学生」の工数をねん出できず、残業するしかなくなったりしている現状もあります。

 

また、一般企業にいると全く理解できないアナログな事務作業の応酬で、教師の工数を奪っている様には、もはや驚きを通り越して感嘆の声を上げるほどです。

そもそも教師という職業に就く人は、大学まで出た人がそのまま教師になるケースがほとんどです。

ちょろっとデータを調べたくらいでは数値が特定できませんでしたが、転職して教師になるという人に比べて、新卒で教師になる人の方が圧倒的に多いと思います。

教師は社会を知らずに教師をやっているため、世の中との乖離が起きていても気づきにくいです。

転職してくる人が多い職場であれば、自身が転職せずとも外の世界を知る機会もありますが、学校ではそうもいきません。転勤も6年に1回という程度で、結局転勤先も外の世界を知らない人ばかり。

 

 

少し話がそれてしまいましたが、教師という職業の特殊性から、以上のようなことが言えるのではないかと考えました。

 

今回の内容については、これまで接してきた教師の話やわずかなデータをもとに、自分の頭で考えた内容でほとんどなので、正直的外れかもしれません。

しかし、全能感を感じすぎたり、無能感を感じすぎたりしてしまうことで、精神的なバランスが取れなくなる、ということが教師に起きるかもしれない、ということは、今後教員を目指す人には、ぜひとも知ってもらいたいと考えました。

教員を目指す人であれば、こういった感じで物事をそれぞれが自分なりに考え続けて、より良い教育の在り方をいっしょに考えていきたいです。

 

では。