令和初となる第101回目の夏の高校野球全国大会が履正社高校の初優勝で終わりました。
今年の夏は大船渡高校の佐々木投手が岩手県大会の決勝戦を登板回避させた監督の決断には賛否両論が吹き荒れました。大船渡高校には佐々木投手を登板させなかったことに対するクレームの電話が鳴り響いた、ということまであったそうです。
その中で出てくる論調は主に以下の2つです。
- 賛成派
高校野球はあくまでも教育の一環なのだから、将来を考えるとケガをさせることがないようにするのが第一で、決勝戦までの球数が多くなっていたのだからケガしないようにするためにも、今回の決断は英断である。 - 反対派
決勝で佐々木投手が投げることで甲子園に行けたかもしれないのに、投げさせないのは何事か。
ネット・TVを問わずこの議論が行われ、賛成派⇒反対派に対しては「結局自分たちが佐々木投手を甲子園で見たいだけだろ!高校野球は、そこで生まれる物語を大人が消費するためにあるわけではない!」といった形で、反対派に対する攻撃がされました。
世の中で1つのテーマでこんなに議論される機会はあんまりないなーと傍観者として興味深く見ていましたが、今更ながら、この件で考えていたことがあったので、お話したいと思います。
いろいろ書く前に私の考えを結論付けておきます。
大船渡高校の考え方に外部が口を出すべきではないので、高校の決断には賛成です。
では、本題に入りたいと思います。
部活動の位置づけを把握している人っていますか?
この件の議論をするにあたって、それぞれの人が考える「部活動」の定義がずれているなーと思ってました。プロ・アマのどちらの論者も多く現れましたが、部活動を国がどう位置付けているのかを考えている(調べた)人はいませんでした。
なんとなくそれぞれの人が思っている部活動像はあるのですが、それに基づいて学校の運営が行われているわけではないので、その根源から解き明かしていく必要があります。(実態が根源と乖離しているケースは当然あるでしょうが。)
部活動は高校向けの学習指導要領では以下のような記載があります。
教育課程外の学校教育活動と教育課程の関連が図られるように留意するものとする。
特に,生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化,科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等,学校教育が目指す資質・能力の育成に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。
その際,学校や地域の実態に応じ,地域の人々の協力,社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行い,持続可能な運営体制が整えられるようにするものとする。
解釈の仕方はいろいろありそうな気がしますが、少し文章を読み解くと、以下のようなことを言っています。
部活動とは、生徒の自主的、自発的な参加により行われる学習意欲の向上や責任感・連帯感を育み、学校教育が目指す能力の育成を助けるものである。
そのうえで、周りの人(地域・教員)は持続可能となるような体制を整えなさい。
「俺の部活動」を振りかざす前に、まずはこれをベースにして議論をしないと始まりません。
こうなると前半と後半の文章で、それぞれの論点が生まれそうです。
- (前半)高校野球の教育における立ち位置とは。
- (後半)「持続可能」な部活のためにどうしたらよいか。
1つ目の論点は、高校野球はあくまでも教育目的で行われるのだから、甲子園を目指すことに必死になる必要があるかないか、といった議論につながります。
2つ目の論点は、今回のような議論のときに部活動が廃止となってしまっては、学習指導要領の求める状態にはならないため、問題・課題が起きる前後に何をするべきか、という論点です。
高校野球の教育における立ち位置とは。
もう一度、定義(っぽいもの)を見てみましょう。
部活動とは、生徒の自主的、自発的な参加により行われる学習意欲の向上や責任感・連帯感を育み、学校教育が目指す能力の育成を助けるものである。
つまり、部活動は「学習意欲の向上や責任感・連帯感を育み、学校教育が目指す能力を育成する」というのが目的です。
ここまでしか部活動について学習指導要領では述べていない、というのがポイントです。
学校教育が目指す能力については、学習指導要領をさらに読み込むことで真相に近づけそうな気がしますが、これが部活動=高校野球の学校教育における位置づけです。
そして、さらに言えば学習指導要領上で目指す能力の育成を、外部の人(監督・コーチ等)の支援を許容しているので、現場でも理解が不十分なまま教育が行われている可能性があります。もちろんそれに統制を掛けるのは、支援を依頼している学校側です。
こんな感じなので、「俺の部活動・高校野球」がはびこっており、議論が散乱してしまいました。
しかし、ここで主語を考えると「俺の部活動」にはなりえません。部活動を提供しているのは「学校」です。
学校なので文部科学省の出しているガイドラインには準拠したうえで、明文化されているかどうかは不明ですが「学校の考える部活動・高校野球」をサービスとして提供しています。
そしてそれを受け入れる人たちが生徒としてその学校のサービスを受けます。
「持続可能」な部活のためにどうしたらよいか。
今回大船渡高校にクレームを入れた人は、そういう状態だということを理解してないか、理解しているけど賛成論者の言うように「消費物」としてしか高校野球を見れない人だと思います。
そもそも、学校に入学している時点で学校が考える高校野球を受け入れることは決まっています。なので、今回の学校の決断に対して外部の人がクレームを入れること自体、誤っているのです。なぜなら、学校と生徒の間での教育サービスは合意を得ている内容なので。
今回の騒動は、それを学校側が早々にマスコミに説明してしまえば、外部は口出しすることができません。それ以上騒ぐ人がいた場合も、その人たちだけがおかしい、と思われて終了。(実際、それに近い状態で扱われています。)
また、学校が考えている内容をどこまで言語化し、開示できているかは不明なので、発表したくてもできていない可能性があるのですが。。。
今回の件でクレームを入れるのはおかしな話。
最後に、関係を整理して、結論にたどり着きたいと思います。
ここで言う「外部の人」は私たちのような高校野球を楽しんでいる人たちです。
たしかにこの図の右側の人=大人たちは、高校野球を消費財として提供・受領する関係にあります。が、同時に理解するべきなのは、そういった関係を学校側も利用しているところがあるという点です。
公立学校においては、必ずしも広告を求めていない可能性はありますが、大人の社会に学校も確実に加わっていることを伝えたいです。
そして、同時に着目するべきなのは、学校の内部で行われる教育については、学校と生徒(+親)のみの関係で完結しているという点です。
上で述べたように、学校で行われる教育は、学習指導要領をガイドにして学校が教育モデルを作り上げたうえで、サービスとして生徒に提供されています。
その中に高校野球が、外部の目に触れやすい形で含まれているだけであり、本質は高校教育の一環で、その内容はすでに生徒・親と合意が取られている内容です。ケガをどう考えるかも「学校が考える高校野球」に含まれているということです。
以上の関係から、高校野球において(学校から教育支援を依頼された)監督の采配について、外部の人間がとやかく言うのは誤っていることが言えます。
まとめ
以上のことから、冒頭で申し上げたように
大船渡高校の考え方に外部が口を出すべきではないので、高校の決断には賛成。
と私は考えています。
こういったテーマではありますが、少しでも世の中が教育に関心を向けてくれるというのは、良いことだと思います。高校野球は教育の一環だけどドラマ性を世の中が求めている、という実態は、議論が起き続けるテーマだと思います。
ケガをするプロセスは科学的に証明されつつあるようですが、人としての正しい成長を証明するプロセスは現時点で明らかになっていないですし、これからも科学的に証明されることはないでしょう。
従って、高校野球に関する議論は起き続けると思いますが、そのたびにみんなが教育・部活動といったテーマを考えることにこそ、意味があるような気がします。
では。