でわひさしの日記

世の中、教育、仕事、趣味などに関して、日々感じたこと・考えたことをつらつらと。

高校野球物語を消費する大人たち。高校野球はいったい何なのか。

令和初となる第101回目の夏の高校野球全国大会が履正社高校の初優勝で終わりました。

今年の夏は大船渡高校の佐々木投手が岩手県大会の決勝戦を登板回避させた監督の決断には賛否両論が吹き荒れました。大船渡高校には佐々木投手を登板させなかったことに対するクレームの電話が鳴り響いた、ということまであったそうです。

number.bunshun.jp

その中で出てくる論調は主に以下の2つです。

  • 賛成派
    高校野球はあくまでも教育の一環なのだから、将来を考えるとケガをさせることがないようにするのが第一で、決勝戦までの球数が多くなっていたのだからケガしないようにするためにも、今回の決断は英断である。
  • 反対派
    決勝で佐々木投手が投げることで甲子園に行けたかもしれないのに、投げさせないのは何事か。

ネット・TVを問わずこの議論が行われ、賛成派⇒反対派に対しては「結局自分たちが佐々木投手を甲子園で見たいだけだろ!高校野球は、そこで生まれる物語を大人が消費するためにあるわけではない!」といった形で、反対派に対する攻撃がされました。

世の中で1つのテーマでこんなに議論される機会はあんまりないなーと傍観者として興味深く見ていましたが、今更ながら、この件で考えていたことがあったので、お話したいと思います。

いろいろ書く前に私の考えを結論付けておきます。

大船渡高校の考え方に外部が口を出すべきではないので、高校の決断には賛成です。

 

では、本題に入りたいと思います。

部活動の位置づけを把握している人っていますか?

この件の議論をするにあたって、それぞれの人が考える「部活動」の定義がずれているなーと思ってました。プロ・アマのどちらの論者も多く現れましたが、部活動を国がどう位置付けているのかを考えている(調べた)人はいませんでした。

なんとなくそれぞれの人が思っている部活動像はあるのですが、それに基づいて学校の運営が行われているわけではないので、その根源から解き明かしていく必要があります。(実態が根源と乖離しているケースは当然あるでしょうが。)

 

部活動は高校向けの学習指導要領では以下のような記載があります。

教育課程外の学校教育活動と教育課程の関連が図られるように留意するものとする。

特に,生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化,科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等,学校教育が目指す資質・能力の育成に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。

その際,学校や地域の実態に応じ,地域の人々の協力,社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行い,持続可能な運営体制が整えられるようにするものとする。

解釈の仕方はいろいろありそうな気がしますが、少し文章を読み解くと、以下のようなことを言っています。

部活動とは、生徒の自主的、自発的な参加により行われる学習意欲の向上や責任感・連帯感を育み、学校教育が目指す能力の育成を助けるものである。
そのうえで、周りの人(地域・教員)は持続可能となるような体制を整えなさい。

「俺の部活動」を振りかざす前に、まずはこれをベースにして議論をしないと始まりません。

こうなると前半と後半の文章で、それぞれの論点が生まれそうです。

  1. (前半)高校野球の教育における立ち位置とは。
  2. (後半)「持続可能」な部活のためにどうしたらよいか。

1つ目の論点は、高校野球はあくまでも教育目的で行われるのだから、甲子園を目指すことに必死になる必要があるかないか、といった議論につながります。

2つ目の論点は、今回のような議論のときに部活動が廃止となってしまっては、学習指導要領の求める状態にはならないため、問題・課題が起きる前後に何をするべきか、という論点です。

 

高校野球の教育における立ち位置とは。

もう一度、定義(っぽいもの)を見てみましょう。

部活動とは、生徒の自主的、自発的な参加により行われる学習意欲の向上や責任感・連帯感を育み、学校教育が目指す能力の育成を助けるものである。

 つまり、部活動は「学習意欲の向上や責任感・連帯感を育み、学校教育が目指す能力を育成する」というのが目的です。

ここまでしか部活動について学習指導要領では述べていない、というのがポイントです。

学校教育が目指す能力については、学習指導要領をさらに読み込むことで真相に近づけそうな気がしますが、これが部活動=高校野球の学校教育における位置づけです。

そして、さらに言えば学習指導要領上で目指す能力の育成を、外部の人(監督・コーチ等)の支援を許容しているので、現場でも理解が不十分なまま教育が行われている可能性があります。もちろんそれに統制を掛けるのは、支援を依頼している学校側です。

こんな感じなので、「俺の部活動・高校野球」がはびこっており、議論が散乱してしまいました。

 

しかし、ここで主語を考えると「俺の部活動」にはなりえません。部活動を提供しているのは「学校」です。

学校なので文部科学省の出しているガイドラインには準拠したうえで、明文化されているかどうかは不明ですが「学校の考える部活動・高校野球」をサービスとして提供しています。

そしてそれを受け入れる人たちが生徒としてその学校のサービスを受けます。

 

「持続可能」な部活のためにどうしたらよいか。

今回大船渡高校にクレームを入れた人は、そういう状態だということを理解してないか、理解しているけど賛成論者の言うように「消費物」としてしか高校野球を見れない人だと思います。

そもそも、学校に入学している時点で学校が考える高校野球を受け入れることは決まっています。なので、今回の学校の決断に対して外部の人がクレームを入れること自体、誤っているのです。なぜなら、学校と生徒の間での教育サービスは合意を得ている内容なので。

今回の騒動は、それを学校側が早々にマスコミに説明してしまえば、外部は口出しすることができません。それ以上騒ぐ人がいた場合も、その人たちだけがおかしい、と思われて終了。(実際、それに近い状態で扱われています。)

また、学校が考えている内容をどこまで言語化し、開示できているかは不明なので、発表したくてもできていない可能性があるのですが。。。

 

今回の件でクレームを入れるのはおかしな話。

最後に、関係を整理して、結論にたどり着きたいと思います。

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高校野球を取り巻く関係整理

ここで言う「外部の人」は私たちのような高校野球を楽しんでいる人たちです。

たしかにこの図の右側の人=大人たちは、高校野球消費財として提供・受領する関係にあります。が、同時に理解するべきなのは、そういった関係を学校側も利用しているところがあるという点です。

公立学校においては、必ずしも広告を求めていない可能性はありますが、大人の社会に学校も確実に加わっていることを伝えたいです。

そして、同時に着目するべきなのは、学校の内部で行われる教育については、学校と生徒(+親)のみの関係で完結しているという点です。

上で述べたように、学校で行われる教育は、学習指導要領をガイドにして学校が教育モデルを作り上げたうえで、サービスとして生徒に提供されています。

その中に高校野球が、外部の目に触れやすい形で含まれているだけであり、本質は高校教育の一環で、その内容はすでに生徒・親と合意が取られている内容です。ケガをどう考えるかも「学校が考える高校野球」に含まれているということです。

以上の関係から、高校野球において(学校から教育支援を依頼された)監督の采配について、外部の人間がとやかく言うのは誤っていることが言えます。

 

まとめ

以上のことから、冒頭で申し上げたように
大船渡高校の考え方に外部が口を出すべきではないので、高校の決断には賛成。
と私は考えています。

こういったテーマではありますが、少しでも世の中が教育に関心を向けてくれるというのは、良いことだと思います。高校野球は教育の一環だけどドラマ性を世の中が求めている、という実態は、議論が起き続けるテーマだと思います。

ケガをするプロセスは科学的に証明されつつあるようですが、人としての正しい成長を証明するプロセスは現時点で明らかになっていないですし、これからも科学的に証明されることはないでしょう。

従って、高校野球に関する議論は起き続けると思いますが、そのたびにみんなが教育・部活動といったテーマを考えることにこそ、意味があるような気がします。

では。

自由研究を難しく考えすぎでは?題材・テーマより大切なことってあるじゃん。

社会人には特段関係のない話題ですが、8月も終わりに近づき学校の世界では夏休みが終わろうとしています。

そんな時期だからか、自由研究の記事が挙がっていました。

www.news-postseven.com

私自身が小学生の時には、自由研究の宿題を課された記憶がなく、自由研究に困ったという経験はないのですが、小学生くらいの親世代と話をしていると何をやらせて良いのか分からないので困る、という話を聞きます。

私の経験とも一致するので、記事にあるような自由研究を手っ取り早く済ませるためのキットを購入し、子どもにやらせる、と親が考えてしまうのは理解できます。

親側の考え方には、「それでいいや」と思っている人もいれば「仕方ないけどこれでいこう」と思っている人もいると思います。

前者の人はさておき、後者の人からすれば

「せっかく自由研究という思考力を育む機会があるにも関わらず、それをやらせないなんて思考力成長の機会損失だ!」

なーんて言われても、

「分かってるよ。これだけが宿題じゃないんだし、終わらせることを優先するためには、仕方ないんだよ。」

というのが本音な気がしています。

 

でも、自由研究ってそんなに難しくない、ってことを今日はお伝えしたいと思います。

 

なんで自由研究が難しいと思ってしまうのか。

そもそも「難しい」と感じなければ、そんなに心理的なハードルが上がって、手を付けるのが遅れる、なんてことは起きないわけです。

じゃあ、なんで自由研究=難しいってイメージになるのか。

 

やることが決まってないから。

 「自由」に「研究」した結果を報告としてまとめる、って大学等では当たり前に行われていることだと思うのですが、「自由であること」も「研究すること」のどちらも難しく感じさせる要素だと思います。

 

「自由」だと考えられない。

自由って素晴らしいことですが、自由とは、自分がどこに向くのかを決めるのが自分になるということです。

例えば、朝顔の観察をレポートとしてまとめてください。って言われれば、親は頭を悩ませることはないでしょう。

が、何でもいいから自由に研究していいよ、と言われると、何をしてよいのか分からなくなります。

学校教育は、学習指導要領(制約)に従って授業を行い、学校から課された宿題(制約)をこなしながら、学力をつけていきます。また、学力測定も、一定の範囲(制約)からテスト問題は作成され、それに答えられるかどうかを基に行います。

そのため、基本的には「制約」を与えられながら学力向上に努めるのが学校の仕組みです。

その仕組みに慣れてしまっているため、制約のない「自由」を与えられた途端に、何をしてよいのか分からず、思考停止が起きてしまっています。

それは子どものみならず親も同じなので、親も一緒になって何をしてよいか分からないからキットを購入しよう!と思考停止な判断に陥ってしまいます。

それが、自由研究を難しく感じてしまう一因です。

 

「研究」何かよく分かってないから、難しく考えすぎる。

「研究」という単語は非常に難しそうなことをやらなければいけない、という気がします。

「研究」という言葉から、どんなイメージ(=映像)を思い浮かべますか?

化学者が試験管に何か入れて難しそうなことをやろうとしていたり、何かを顕微鏡で除きながらいろいろ調べている・・・

おそらくこんな感じじゃないでしょうか?

 研究って言葉が持つイメージからエジソンみたいなスゴイことを想像してしまい、逆に何をやれば良いのか分からなくなっている気がします。

また、親世代にも研究を経験したことの無い人が多くいると予想されます。

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年齢階層別の最終卒業学校の種類別人口比率

ガベージニュースから上記のデータは拝借いたしました。

これは2010年のデータなので現在(2019年)に当てはめる時には、+10歳くらいで考ると現在の親世代の最終学歴が分かります。

今の小学生の親世代は、20代~40代が多数を占めるでしょうが、今の20代の10年前のデータはあまり使えません。(2010年当時10代だったため、最終学歴が定まってないため。)従って、今の30代・40代だけが上記のデータが使えます。(このデータ上では、20代・30代が該当)

そのなかで大学を出ている人は以下の割合です。

  • 今の30代(データ上は20代):29.9%
  • 今の40代(データ上は30代):28.7%

高校までに「研究」を経験している人はほとんどいないと思うので、大学を経ている人が研究を経験していると仮定しても、3割弱しかいないことになります。また、大学に行ったからと言って研究した経験を持っているかは別物ですので、実際に研究を経験している人はさらに下がることが予想されます。

ここで言いたいのは、親も研究って何なのかよく分かってないってこと。(今の20代のデータはないですが、大きな傾向は変わらないでしょう。)

なので、研究という実態がつかめず、難しく考えすぎてしまい、何をしてよいのか分からなくなる、ということだと思います。

 

では、研究とはなにか。

このブログを頻繁によく読んでくれている方は想像がつくでしょうが、こういう時は根源にまずはアタックしてみるのが考えるキッカケになります。

[名](スル)物事を詳しく調べたり、深く考えたりして、事実や真理などを明らかにすること。また、その内容。(goo辞書)

はい。辞書にあたってみました。

「研究」自体はそこまで難しいことを言っているわけではないことが分かったと思います。しいて言えば「真理を明らかにする」は難しいことを想像させます。

じゃあ、真理とは・・・

いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。(goo辞書)

「変わることの無い正しい物事の筋道」とありますが、「変わることの無いこと」くらいの理解でとどめておきます。

2回ググってみただけで研究は以下のことだと分かりました。

物事を詳しく調べたり、深く考えたりすることで、事実や変わることの無いことを明らかにすること。

「事実を見つける」あるいは「変わることの無いこと」を明らかにするという目的を、「物事を詳しく調べたり、深く考えたりする」ことによって達成するとも言えます。

 

ここまで解釈が進めば、研究が難しいものではないことがわかるかと思います。

例えば、、、リンゴが木から落ちる、という現象を例にとります。

  1. リンゴの木を観察して、リンゴが木から落ちた。
  2. 机の上にあるティッシュ箱を観察して、ティッシュが机から落ちた。
  3. 雨を観察して、雨が空から地面に落ちた。

この3つの事実から、リンゴ・ティッシュ箱・雨を観察した結果、地球上ではモノが高いところから低いところに落ちるという事実を発見できました。

これは「研究」の定義に合致しています。これも研究といえる、ということです。

 

身近にあるものを観察したりすることで、十分に研究は行えるということです。

「研究」という言葉から抱く難しそうなイメージから、脱却できましたか?

 

じゃあ、どんあ研究テーマがあるのか。

まとめると自由研究の定義は以下となります。

特にテーマは定めないので、何らかの「事実を見つける」あるいは「変わることの無いこと」を明らかにするという目的を、「物事を詳しく調べたり、深く考えたりする」ことによって達成すること

「変わることがないこと」を証明するのは非常に難しいので、目的設定は「事実を見つける」というところに置いた方が難易度が低いと思います。

もう少し言えば、詳しく調べたり深く考えたりした結果、どんな事実を見つけたのか、を説明することは、自由研究での必須要素です。

例えば、朝顔の観察を例にとれば、

〇月 〇日 芽が出た

×月×日 花が咲いた

△月△日 種ができた 

こういった内容だけでは、「調べた」ことにはなりますが、調べた結果「事実を明らかにした」とは言い難いです。(細かな事実は明らかになっているのですが。)

大切なのは「調べた結果、何が事実として言えるのか」です。

この観察日記に「朝顔は芽⇒花⇒種という順序で成長する」という結論があればOKです。もし朝顔以外の花も同時に育てていれば、「花は芽⇒花⇒種という順序で成長する」と結論付けることも可能です。

 ここまで言えれば自由研究の定義に合致しています。

 

自由研究テーマの具体例

こういった感じで自由研究は進めていければ、特段難しいことはないです。

<理系:エネルギー>

  1. なんでも良いので傾斜を用意してください。(板とかをティッシュ箱に立てかける、でOK)
  2. 低い方に何でもいいのでモノを置いてください。(ティッシュ箱とか)
  3. 傾斜の高い方からモノ(チョロQでもボールでも何でもOK)を落として、低い方のものにぶつけてください。
  4. 傾斜の高さをちょっとずつ上げたり下げたりしながら、ぶつけられたものがどれだけ動くのかをチェックしてください。
  5. 高さとぶつけられた側の移動距離にどんな関係があるのかをまとめてください。

 

<文系:ラグビーW杯の出場国>

  1. 世界地図を用意してください。
  2. ラグビーW杯の出場国を世界地図上にマッピングしてください。
  3. マッピング結果から何が言えるのか・どんな傾向があるかを考えてください。
  4. なぜそういう結果なるのかを調べてみてください。

 

まとめ

こんな感じです。
お金なんかかけなくたって、自由研究って意外と簡単にできるんです。

もちろん、子どもがそれをやろうとすると、モチベーション的にも能力的にも難しいところはあると思いますが、自由研究については子どもではなく大人も分かってない、という事実を受け止める必要があります。

子どもができないことを大人のサポートによって伸ばしていくのが、教育だと思います。そのためには大人も学ばなければいけないときはあります。

学校が教えるべきこと・保護者が教えるべきこと、という境界線を作ることに意味はなく、子どもに足りないところがあるなら、それを補うのは「大人」の役目です。

それを、能力・時間を言い訳にして、子どもに適当に教えるのは危険であり、大人やるべき役割を果たせていないと感じます。

たかが夏休みの宿題の1つ、たかが自由研究ではありますが、それを手っ取り早く終わらせようとしていては、考える楽しさ・学ぶ楽しさ・成長する楽しさは放置され、やることだけが優先されるような印象を、今回冒頭に挙げたニュースからは以上のようなことを感じざるを得ませんでした。

私も含めた大人が一体となって、子どもが楽しいと感じながら成長することを支えられる世の中にしていければと思います。

では。

読解力が低いということなので「読解力」の定義と伸ばし方を考えてみる。

遅ればせながら、「AI vs 教科書が読めない子どもたち」を読みました。 

 何度か読もうと試みては、仕事に追われたりして読了することができませんでしたが、改めて読んで良かったと思えました。

 

この本に書かれている内容

この本は大きく2つの構成になっています。

  • AIに対する理解を深めるパート
  • 日本人の読解力がいかに低いかを示すパート

前段で、世の中にあふれている「AI」に関する誤解を解きながら、本来のAIができること・できないことを丁寧に説明しています。

そのなかに、AIは意味を理解することができない、と説明があります。

例えば、
1.太郎さんは花子さんが好き
2.花子さんは太郎さんが好き

2つの文章が持つ意味は違うのですが、文節・単語に区切ると同じ要素を使っており、それを組み替えているだけで、AIにはその違いを理解することができない、ということです。

AIはプログラムでしかなく数学的に表現ができないことしか実現できないため、iPhoneのSiriのように会話をしているようなAIが出てきたとしても、インプットから論理的な計算に基づいてアウトプットしているだけで、意味を理解して会話しているわけではない、という説明もあります。

そのため、AIに仕事を奪われないようにするためには、人間しかできない「意味を理解する」ことが必ず求められます。

しかし、現代人は意味を理解する(=読解力)のレベルが低い、ということを、この本の「日本人の読解力がいかに低いかを示すパート」で証明しています。
(ちなみに、”日本人の”と限定していますが、他国の分析をしていないのでそう表現していますが、他国の読解力が高いかどうかは不明です。)

細かな数字は忘れてしまいましたが、統計的には国立大学の良いところに行っている人たちくらいしか読解力があると言えない、というレベルでした。(あくまでも統計なのでどこ出身であっても人によって読解力の高い/低いは変わります。)

どのようなテストを用いて読解力の多寡を測っているのかは、ぜひこの本を読んでいただきたいところです。

 

ここでは「じゃあ読解力って何なの?」という点をもう少し深堀して考えてみたいと思います。

また、この本では読解力の向上のさせる方法に科学的に証明された方法はない、と説明しており、例えば読書量は読解力に比例しないといった実例も出ています。

が、せっかくなので、どうしたら読解力が向上するのかも一緒に考えていこうと思います。

 

読解力って何?

こういう時には原理原則。まずは辞書にあたってみましょう。

文章を読み、その内容を理解すること。(Weblio辞書から引用)

 文字の意味のままでしたが、二つの内容が含まれていることが分かります。

  1. 読むこと
  2. 理解すること

おそらく普通に生活していると、「1.読む」と「2.理解する」は同時に行っていると思います。が、難しい本だと読んでいるのに頭に入ってこない、といった経験はお持ちかと思うので、やっぱり「1.読む」と「2.理解する」は別物なのだと思います。

そこで、それを分解して考えると、

  1. 読む=表示されている文章を認識することができること。
  2. 理解すること=認識した文章を映像化することができること。

だと思います。

1.読む=表示されている文章を認識することができること。

 文章自体を認識できない、なんてことはないとお思いかもしれないですが、例えばアラビア語タイ語みたいな言語は、日本人では認識することすら難しいと思います。どこで文字の区切りがあるのか、文節がどこで区切られているのかすら分からないと思います。

まずはこれをやれるかどうか、が読解のスタートなのだと思います。

日本においては初期教育がしっかりと行えているので、識字率(字を認識することができる割合)は高い水準(99%)にあり、読解力が低い原因がここにあるとは考えにくいです。

2.理解すること=認識した文章を映像化することができること。

次に該当するのはここで、ここに読解力の低さの原因があると考えています。

私は、人が何かを理解するためには映像に置き換える必要があると考えており、文章についてもそれと同じだと思います。

例えば小説だと、書いてある文章からどんな情景なのかを思い浮かべ、主人公がどんな感情でどんな動きをしているのかを映像にすることで理解を進めていくと思います。

また、日常会話の場合でも、体験したこと(=映像)を言語化(=文章化)して相手に伝えることで、相手は文章を頭の中で再構成し映像を思い浮かべながら理解していると思います。

理解する能力=映像化することができる能力、だと考えています。

抽象的な内容や自分が全く知らない世界の話になるほど映像化の難易度は上がっていくので、これを幅広くできる人が理解力が高い人なのだと思います。

ちなみに、読む/聞く側の話ばかりしてますが、相手が映像化しやすいように話す/文章を書くことが、分かりやすい話し方/文章の書き方の本質だと考えています。

 

読んで理解すれば読解力は十分か?

読解力は「読んで、理解する」だけでOKか、というと、そうじゃない気がします。

相手の表現していることを理解することができるのに、なぜかコミュニケーションがうまくいかない、という経験を持っている人は多いと思います。

真の読解力に求められる要素は「読んで、理解する」だけでなく、「なぜそれを相手が表現したか」まで慮れるかどうかだと思います。

文章を読み解く時よりも口頭で会話する時の方が意識が向きやすいと思いますが、表現された内容をそのまま理解するだけでは裏側にある文脈やその人の考え方を把握することは困難で、理解する時に思い浮かべる映像が誤ったものになる可能性があります。

そのため、コンサルとしてクライアントと対峙する際には、相対する人の所属部門や経歴等を把握することで、守りたいものや達成したいことを想像しながら、一つ一つの表現を受け取るように心がけています。

それができるようになると、相手の表現している内容を表面的に理解するレベルから相手の意図していることを深く理解できるレベルに変わり、1から5や10を理解するようなことができるようになってきます。

 

「読解力」を身に着けるためにはどうしたらよいか。

 ここまで読解力とは何か(What)を深堀して考えてきました。

まとめると、読解力とは以下の3つの要素で構成されます。

  1. 読む=表示されている文章を認識することができること。
  2. 理解すること=認識した文章を映像として理解できること。
  3. 表現の背景を意識する=なぜその表現を使うかに思いを馳せること。

「1.読む」は日本語であれば日本人の大多数はおおよそできているので特に問題ないでしょう。自分/相手の意図していることを適切に表現する単語を多く知った方がと思いますが。

問題は「2.理解すること」と「3.表現の背景を意識すること」です。

2.映像として理解する能力を上げるためには

文章⇒映像、映像⇒文章ということを繰り返し練習をするしかないと思います。

が、それを言っても仕方ないと思うので、おススメなのは小説を読んだ後に映像化された作品を見ることです。(自分が表現する能力に不足を感じている場合は、映像化された作品を見る⇒小説を読む・人に話す)

抽象的な概念の書籍を読もうと思ってもなかなか能力は向上していかないと思います。(なぜなら概念を映像として理解することは難しいので)

そのため、まずは映像化しやすい小説を読むことをお勧めします。ただし、ただ小説を読むだけでは映像化の訓練にはならないため、まずは小説を読みながらどういった情景なのかをイメージすることです。その答え合わせといってはなんですが、映像化された作品を見れば小説の表現と自分のイメージの乖離に気づくことができます。

この際、読解力不足で小説を読んでいても頭に入ってこない感じがあれば、まずは映像化された作品を見てみてください。その後、小説を読めば頭の中にある映像を頼りに小説を読み進めていくこともできるようになります。

従って、小説を頼りにして文章⇒映像、映像⇒文章を繰り返してみることが初手です。

慣れてきたら抽象的な概念について記述されている書籍に触れてみてください。

3.表現の背景を意識するためには

これを訓練するためには「なぜ?」を繰り返し自身に問い続けるしかありません。

  • なぜ相手は〇〇と言ったのか、言っているのか

必ず表現には、その人の考え方(大切にしたいこと等)が反映されます。そのため、相手の言っていることを額面通りに受け取らない(疑う、と同義)よう上の質問を自分に投げかけます。(聞ける状況であれば相手に聞いてしまってもOK)

経験がこの能力を向上させることもあると思いますが、相手の所属部門や経験してきたこと等を把握することによって想像が働きやすくなるので、その人が大切にしているポイントに意識を向けながらコミュニケーションをとると良いです。

 そのためには、会社を例にとれば、部門の目的・ミッション等の知識獲得が必須です。

 

まとめ

「読解力」をテーマに考え始めたので、最初は文章を中心に考えましたが、読解力は文章だけでなく発言も同じように求められるなと感じてきました。

また、コミュニケーションは受け取るだけでなく渡す側にも当然なります。

「読解力」=文章を読む、というテーマでしたが、文章だけじゃないし受け取るだけじゃない、つまりコミュニケーション能力につながるような話だと思います。

思わぬ長文になってしまいましたが、少しでもお役に立てればと思います。

 

なお、理解することを「映像化できるかどうか」と表現していますが、視覚的・聴覚的・体感覚的な認識方法がある、といった説明をNLPの本で読んだことがあります。(あまりNLPに詳しいわけではないので、あやふやですが。)

そのため、人によっては映像化ではなく、音にできるか、触覚に変換できるか、といった理解の方法があるのかもしれないです。(私が視覚的な理解をしているだけの可能性もあります。)

NLPの基本がわかりやすくまとめられている本がどれか分からないですが、いくつかリンクを貼っておきます。 

マンガでわかる!  すぐに使えるNLP

マンガでわかる! すぐに使えるNLP

 
マンガでやさしくわかるNLP

マンガでやさしくわかるNLP

 
手にとるようにNLPがわかる本

手にとるようにNLPがわかる本

 

 では。

高校野球観戦(甲子園)の持ち物

高校野球を観戦しに甲子園に行くのが恒例行事となっています。

毎年行っている割に持ち物が安定しないので、この機会に持ち物リストを作っておこうかと思います。

自分用のメモとして記録を残しておこうと思っていますが、甲子園に行く方はご参考になればと思います。

 

なお、高校野球観戦@甲子園および私の過ごし方には以下のような特徴があるので、それに合わせた準備をしています。

  • 8月中旬の朝~夕方ごろに開催される。
  • 1日に3~4試合開催される。(全試合見る前提です。)
  • 外野席は屋根が無いため直射日光を浴び続ける。
  • 2日~3日程度続けて観戦する。
  • 東京在中のため、甲子園近辺で宿泊。
  • 写真が趣味なので、カメラでの撮影を前提。

 

では、持ち物リストです。

 

リュック

リュックはこれを使ってます。 収納力も高いので、ちょっとした旅行の時にはこれを使います。(当たり前ですが、重く・大きくのなるのがネックですが。。。)

 

メイン収納スペース

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メイン室を覆いかぶせるようにタオルを入れてます。

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タオルの下にはこのような感じで入れてます。

以下のような中身です。(リンクは一部だけ載せておきます。)

外野席からの写真撮影のためカメラレンズは望遠ズームを持っていっています。

外野席(前方)からでも、このくらいの写真が撮れます。

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トリミングなしでもこのくらいは撮れます。

また、氷のうは個人的には必須アイテムです。

暑い甲子園なので定期的に中身を入れ替えながら、熱くなっているところに当ててあげるだけでも熱中症対策になります。ロックアイスを買っていって、定期的に入れ替えれば、現地でかちわり氷を買うよりも安く済みます。

 

上部(内側)

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カメラバッグ(上部)のメインスペース

ここは着替えをいれるだけでほとんど終わりです。

 

上部(外側)

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カメラバッグ(上部)の外側スペース
  • 携帯ケーブル3本
  • ACアダプタ
  • モバイルバッテリー
  • メモリーカード
  • カメラ用バッテリー予備×2

ここには小物を収納しています。カメラ関連のすぐに取り出したくなるものを入れます。

  

PC収納スペース

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PC収納スペース
  • iPad
  • 携帯座布団
  • 衣類用圧縮袋
  • 雨具

ほとんど写真では何が入っているか分からないでしょうが、あると便利な小物を入れてます。

携帯座布団は地味に重要です。甲子園は炎天下なので、5分ほど席を空けただけでも、席はがっつり熱くなってしまいますし、長時間座るのでお尻も痛くなります。それを少しでも防いでくれるので、数年前に購入してから必ず持っていっています。

 

 

クーラーバッグ

続いてクーラーバッグです。

1日中甲子園にいるとなると熱中症対策は必須です。甲子園で都度飲み物を購入する、といったことも可能ですが、金銭的な負担を減らすためにもクーラーバッグを持っていっています。

リンクを探しましたが、見つかりませんでした。以前にコストコで購入した2Lペットボトルが6本ほど入るサイズのものを使っています。

(家から持っていくもの)

(現地で購入するもの)

  • ロックアイス×2
  • 水2L×3

 今年は家から持っていくものもありましたが、関西入りしてから購入することも可能です。

ロックアイスはコンビニで大きな袋に入っているものを2つ購入していますが、1日見るのであればひとりでこれだけ持っていれば十分かと。使い方にも寄りますが、第3試合終了くらいでおおよそ無くなりますが、そのころには暑さも和らぎます。(ロックアイスは保冷剤代わりとしても活躍してくれます。)

私はあまり現地でビールを飲まないですが、水もこれだけあれば十分です。

もしこれで足りなくなれば、甲子園でかちわり氷やドリンクを購入すればよいか、という量です。

何よりどんどん重くなっていくので、リュックも合わせると大人の男性でもこれ以上は頑張りたくない重さ、という感じです。

 

 

小さなバッグ

甲子園で観戦を始めてからすべての荷物を持って移動するのは難しいので小さなバッグに小物を入れて持ち運びます。※置き引きには十分注意してください。

小さなバッグには「さっ」と取り出したいものを入れています。

  • 顔拭きシート
  • 体拭きシート
  • ミニファン
  • 財布
  • 日焼け止め
  • 制汗剤(ボールタイプ)
  • イヤフォン
  • テレビ視聴用チューナー

 

 

大体こんな感じです。

甲子園で1日中観戦しようとすると、かなりの体力を消費します。

熱中症対策を金額で抑えながらしようと思うとなかなか大変ですが、倒れてしまっては元も子もないので、十分な対策をしながら楽しんでください!

 

では。

 

「文学」と「現代小説」の違い

先日フランス人の人と話をしていたところ、文学作品の話題になりました。

夏目漱石太宰治森鴎外など幅広い作者について話しましたが、フランス人の彼から驚きの一言がありました。

「日本人相手に文学の話をしたことはあるけれど、ここまで話せる相手はいなかった。」

私が驚いたのは、私と接する前に接した日本人では文学の話ができなかった、という点です。

 

というのも、私自身も文学作品を多く読んでいたわけでもないですし、上に挙げた人たちでさえも各作者1冊~2冊程度しか読んだことが無いレベルの知識なので、文学を愛する人たちから比べれば、はるかにレベルは劣ります。にもかかわらず、その程度でフランス人の方からそういった反応が来るとは。。。というのが私が驚いた根源です。

(ちなみに、フランス人の彼と話した言語は日本語なので、言語の壁はないです。)

 

ちなみに私は、マンガ以外には読書と呼べる読書はしないまま大学に入学しましたが、読書をしていないという危機感は持ちながら生活をしていました。

そこで一念発起で読書しよう!と思い立ち、読書=小説=文学というイメージが高校時代についていたので、文学作品(宮沢賢治夏目漱石太宰治森鴎外川端康成三島由紀夫等)を1年間ほど読んでみた、という感じです。

その後、読書には文学以外もたくさん存在することに気づき、現代小説(東野圭吾)を読んでみたら、その読みやすさに驚いた、という記憶が鮮明に残っています。

それ以降は、文学はあまり読まずに現代小説を中心に読んでいます。

 

そんな程度の私ですが、どうやら普通の日本人よりは文学に詳しいようなので、ライト文学読者の私が感じている文学と現代小説の違いを今日はお話したいと思います。

  

 

まず、文学と現代小説の大きな違いは「読みやすさ」でしょう。

読みやすさと一言で言っても、様々な種類が存在しますが、単純に日本語としての読みやすさが大きく違います。

文学は、作者の生きていた年代によっても異なりますが、漢文・古文を主体としていると思わせるような表現が多々あるため、今の私たちからすると非常に読むのに疲れます。

小説を読むときには、文字⇒映像へ変換しながら読むと思うのですが、その変換に時間を非常に要する、と言い換えてもいいです。

その点現代小説は、今の時代に合わせた表現なので非常に読みやすく、文字⇒映像への変換はたやすいです。(もちろん、普段どれだけ文字に触れているかに寄りますが)

ここで文学を挫折してしまう人は多くいるような気がします。

 

次に、物語としての面白さです。

私が感じているのは、文学は干物、現代小説はガム、みたいな感じということです。

文学の世界観は、上記の読みやすさの問題もあり、とっつきにくく、ストーリーとして面白さを感じにくいと思っています。しかし、じっくりと読み進めていけば、物語全体でのメッセージや随所にみられる表現には「をかし」な感覚です。(その観点において、芥川龍之介太宰治は好きです。)

一方で、現代小説はエンターテイメント性が高く、次の展開が気になるようなストーリーです。次の1ページを開きたくなるような仕掛けが随所に凝らしてあり、寝る間を惜しんで読みたくなるのは現代小説です。映画のようなスピード感を感じながら読み進められるのは現代小説の特徴ではないかと思います。

上記のような違いを感じているため、

  • 読むのは多少苦痛が伴うけど、じわじわと楽しめる文学=干物
  • パッと楽しめるエンターテイメント性のある現代小説=ガム

のような感じで私は捉えています。

 

 

これらの特徴は、小説の世界だけでなく、マンガの世界も同じでは?と思っています。

マンガの世界は小説と比較して歴史が浅いため、文学のような作品は多くないのですが、マンガの祖である手塚治虫作品には文学に通ずる感覚を持っています。

手塚作品は、コマ割りやストーリー展開等、今と比較すると正直読みやすいとは言い難いと思います(少なくとも私には)。しかし、どのマンガもメッセージ性が強く、今読んでも感じさせられるものが多い良質な作品が多く残っています。

一方で、今の漫画は映画のような感じで、エンターテイメント性は高いのですが、メッセージ性は手塚作品の時代と比べると、そこまで強くはないと感じます。

 

こういった創作品が、すべからくこのような流れとなるのかは不明ですが、小説とマンガで同じような流れを辿っているのは、興味深いと感じました。

もちろん、どちらが良い!という話ではないのですが、普段エンターテイメント性の高い最近の作品に触れる機会がどうしても多くなりがちなので、含蓄を多く含んだ過去の作品たちを読んでみよう、と考えるきっかけになりました。

 

みなさんの好きな作品、読んでみたい作品はなんでしょうか? 

蜘蛛の糸

蜘蛛の糸

 
走れメロス

走れメロス

 
手紙 (文春文庫)

手紙 (文春文庫)

 

では。

 

「なぜ」を使い分けることで思考の深堀を助ける。

以前に「なぜなぜ分析で陥りやすい誤った問いの立て方」というエントリを書きましたが、もう少しこれらについて考えてみたので、今日はそのお話です。 

dewahisashi.hatenablog.com

 このエントリ内では、いわゆるトヨタ生産方式で問いかけられる「なぜ」にフォーカスしていたので、以下のような形で結論付けています。

〇:なぜ起きるのか?は課題の原因を深掘る。
×:なぜ問題なのか?は課題の重要度を測る。
×:なぜそう言えるのか?は問題の裏付けをする。

 しかし、後半二つの「なぜ」も適切な使いどころがあり、目的に応じて使い分けると非常に効果的なものとなります。

というか、これらの使い分けができない限り生産性の高い仕事はできない!といえると思います。

では、早速後半二つの使い方を考えてみたいと思います。

 

なぜ問題なのか?

この問いを以前のエントリでは以下のように説明しています。

この問いは「課題がなぜ課題として認識されるのか」という課題設定そのものに対する疑問をつぶすための問いです。

これをもう少し深堀していきたいと思います。

そもそも仕事で発生する課題・問題が発生すると、それを解消しながらビジネスを回していきます。

その際の前提として、課題(=イシュー)が適切に設定されている必要があります

誤った課題(イシュー)を設定してしまうと、どんなに素晴らしい解決策を作り出し、実行したとしても本当に解決したい問題は解消されません。

つまり、最初に設定するイシューの質が非常に重要ということです。 

例えば、「友人に彼女が半年間いない」という事実を課題だと感じた人が、「友人に彼女を作るためにはどうしたらよいか。」というイシューを設定したとします。

このイシューから導き出される解決策は、「身だしなみを整える」「会話が続くようなコミュニケーション力をつける」といったものとなります。

しかし、「彼女がいない」という事実に対して、当人が課題だと思っていない場合(=彼女が必要じゃない等)、どんなに良い解決策を出したとしても意味がありません。 

上記のようなケースはビジネスにおいても頻繁にあります。

ある事象を課題だと思っている人もいれば、そうじゃない人もいるような場合、慎重にイシューを設定する必要があります。

このような時には「なぜ問題なのか?」という問いは有効になります。

設定しているイシューを疑う目を持つために、その事象ががなぜ問題であり、なぜ解決しなければいけないのかを深堀して考える問いが、「なぜ問題なのか?」です。

イシュー設定を誤るとその後の解決策を検討・実行する時間が無駄になり、生産性は非常に落ちます。それを防ぐために有効な質問がこの質問です。

なお、イシューの大切さや設定する方法について詳しく書いている名著に「イシューから始めよ」という本があるので、全ビジネスパーソンが読むことをお勧めします。 

イシューからはじめよ――知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ――知的生産の「シンプルな本質」

 

 

なぜそう言えるのか?

これは以前のエントリでは以下のように説明しています。

これは問題がなぜ問題だと言い切ることができるのか、を裏付けするときには有効 

部下がいるとイメージしやすいのですが、部下が何らかの課題を感じて自分のところに持ってきたとします。その時に使うのがこの問いです。

あるいは、なんらか結論らしいものを部下が持ってきたときに、何を以てそう言っているのかを確認するときに有効です。

例えば、子どもから、みんなが持っているからおもちゃを買ってほしい!と訴えてきたときに、「みんなって誰?」と聞かれた・聞き返された経験を持つ人は多いでしょう。

「みんなって誰?」を言い換えると「なぜ”みんな”が持っている、と言えるのか?」となります。

ここで使っている思考が、「なぜそう言えるのか」と合致します。

小難しい表現を使えば、演繹法帰納法・ピラミッドストラクチャーを使う際に必要となる「なぜ」は、この「なぜ」です。

カエルの子どもはおたまじゃくしである。

「なぜそう言えるのか」

⇒1.〇〇カエルの子どもはおたまじゃくしだから。 

 2.××カエルの子どもはオタマジャクシだから。

 3.△△カエルの子どもはオタマジャクシだから。

このようにある結論にたどり着いた思考過程を遡って確認する・根拠を確認する際に使うのが「なぜそう言えるのか」という問いです。

ITリテラシーの必要性を訴えられてから久しく、世の中が伝えていることを鵜呑みにする人は多くないと思いますが、その際に「本当?」と疑った先にある問いがこの問いです。

 

このように様々な用途に合わせた「なぜ」があり、世の中一般では「なぜ」としか表現されないので使い方を間違えると誤った結論にたどり着くので、前回+今回のエントリが皆さんの参考になればと思います。

 

dewahisashi.hatenablog.com

では。 

Nintendo Switch Liteから見えたゲーム機戦略の変化

Nintendo Switchの携帯専用バージョンの本体が発表になりました。

www.nintendo.co.jp

 

Nintendo Switchが発売になった時にも衝撃を覚えましたが、この発表の感想としては「やっぱり、そうなったか。」です。

じゃあ、なんで「やっぱり」と思ったかというと、以前のエントリで述べた

dewahisashi.hatenablog.com 

大人の間には携帯電話が普及し始め、一家に一台の電話⇒一人に一台の電話、という変化が起きている一方で、子どもの間では一家に一台のゲーム⇒一人に一台のゲーム、という変化が起きていました  

 という箇所と合致するからです。

据え置き機さえも一人一台の時代にしようとする任天堂の考えが読み取れます。

一方で、Nintendo 3DSはかなり消極的になっているので、もはや据え置き機と携帯機の区別をなくそうとしているのでしょう。

 

このあたりの変化をもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

 

これまでは「据え置き機:ファミコン・プレステ等」と「携帯機:ゲームボーイ・DS・PS Vita等」という区別がありました。

基本的には、

  • 据え置き機=家でしかできないけど良いスペックのゲーム機
  • 携帯機=携帯できる分、据え置き機にスペックは劣る

といった区別がされてきました。

ゲームボーイのころは、ファミコンはカラー画面だけどゲームボーイは白黒画面といった違いがあり、非常に分かりやすかったです。

しかし、技術の進歩によって据え置き機でしか実現できなかったようなスペックのゲームが携帯機でもできるようになっていきました

 

それと時を同じくして、ゲーム(据え置き機+携帯機)の競合が変わっていきます。

従来は、ゲームの競合は他社のゲームであり、いかにして売るかを考えるときには他社をいかにして上回るか、を考えていたと思います。(もちろん、ボードゲームといったテレビ画面以外の競合ゲームもありましたが、あまり意識してなかったでしょう。)

しかし、スマホでゲームができるようになったことで、これまでのゲーム(据え置き機+携帯機)の競合は、たった数年でスマホになりました。

つまり、据え置き機と同じようなスペックのゲームを携帯機でもできるようになりましたが、普段持ち歩くスマホでも同じようなことができるようになってしまったので、ゲーム機自体の存在意義を考える必要性に迫られたわけです。

※課金モデルが変わったことも特徴的ですが、ここでは割愛します。

 

そこで、ゲーム機側がスマホに勝る要素を挙げるとすれば、以下の要素です。

  • ゲームをしやすい形(コントローラー・処理能力等)になっている。

うーん、正直それ以外には思いつかないです。。。

スマホはゲーム専用機ではないので、コントローラーは付属してないですし、それ用の設備を付けられるわけでもありません。

逆に言えば、その点に特化した戦略を取ったのがNintendo Switchということでしょう。

 

スマホが明確に出ており、

  • スマホよりも見やすい画面サイズで色もキレイ
  • スマホよりも操作しやすいコントローラー付き
  • スマホではできない据え置き機⇔携帯機の行き来ができる

みたいな要素が特徴として出ています。

また、Nintendo Laboのような体験型のコンテンツと組み合わせたあたりは、スマホではできないことを実現しているので、さすが任天堂といった感じです。

www.nintendo.co.jp

このようにスマホとの差別化を図りながら、ゲーム機を購入する意味を消費者が理解できるようにしているのが任天堂の戦略なのだと思います。

 

プレステについては細かく触れませんが、Sonyも同じようにスマホとの差別化は考えているはずです。おそらく、スマホでは到達できないようなスペック(処理速度やグラフィック性能)で勝負しているのが、プレステでは?と私は考えています。

 

そういったところから、任天堂はゲーム初心者~中級者くらいを対象にしたビジネスを展開し、Sonyはゲーム中級者~上級者を対象にしたビジネスを展開している、という違いも感じます。

 

長く触れ合ってきたゲームですが、大人になった今、少し目線を変えてみると非常に面白いなぁ、と思います。

直近の悩みどころは4年ぶりに発売される「プロ野球スピリッツ」をPS4とPS Vitaのいずれで購入するか、なのですが。。。(正直Nintendo Switchで出てほしかった。。。)

 では。