でわひさしの日記

世の中、教育、仕事、趣味などに関して、日々感じたこと・考えたことをつらつらと。

目に見える職業しか選択肢には入らない。

社会人になってからは、なかなか海外旅行に行く機会が少なくなってしまったのですが、学生のころには頻繁に海外旅行に行っていました。

当時から学校教育に対して考えていたこともあり、旅行中にも海外の教育事情を把握したいと考え、様々な情報に触れるようにしていました。

大学4年生の就職間近なタイミングで、インドに行った時にも教育事情を見てきました。

 

その前に、少しインド旅行の話を。

デリー⇒アーグラー⇒バラナシ⇒コルカタと移動しながら、約1か月ほど回りました。

デリーでは、インドのごみごみとした雰囲気と乾燥した空気を強烈に感じながら、ちょっと怖い目に会うかも、というドキドキ感を抱きながら、わずかな期間だけ過ごし、タージマハルのあるアーグラーへと移動しました。

アーグラーでは、朝焼けのタージマハルを鑑賞しましたが、あれほど凄いと思った建造物は初めてでした。規模で言えば、アンコールワットやその周辺遺跡もすごかったですが、タージマハルの美しさと偉大さには圧倒されました。

あれが廟であるというのが信じられないほどで、数時間はその場にいたと思います。

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タージマハル(2011年)

 

その後、バラナシへと移動し、この旅行最長の2週間程度を過ごしました。

 

ガンジス川のほとりにいながら過ごす予定だったのですが、たまたま高橋歩さんがインドに来ているという情報を仕入れました。

高橋歩さんってどんな人?という方は以下のサイトをどうぞ。

www.ayumu.ch

 

「情報を仕入れたにもかかわらず、動かないなんてもったいない。

高橋歩さんに会えるチャンスなんてそうそう無いし、それがインドってさらにすごいじゃん!」

と思い、ノリと勢いだけで高橋歩さんが滞在していると噂のゲストハウスに乗り込みました。

 

するとさらに偶然が続き、ゲストハウスの屋上で飲み会やってるから、参加したら―?とお誘いを受けた結果、なんと高橋歩さんと一緒に飲むことになりました。

 

その飲み会で、バラナシには「マザーベイビースクール」という、学校に通えない子どもたちが参加できる学校があり、そこでボランティアとして参加することが可能だということを知りました。

(現在は分かりませんが当時は)インドに常駐されているNPOの方+旅人を中心としたボランティアが英語・数学を子どもたちに昼前~夕方手前くらいに教える、という感じです。

日本の子どもへの教育機会も持っていなかったのに、インドの子どもへ教育できるなんて超ラッキー、と即参加を決めました。

 

翌日からマザーベイビースクールに通うこととなり、そこでインドの子どもたちと接する日々が始まりました。

学校の黒板しか手元に写真がなかったのですが、こんな感じで全体では話をします。

しかし、各生徒のレベルに合わせて一人一人学習内容は変えるので、集団学習のようなことはしないです。(NPOでは、ここの生徒が作った”しおり”を販売していたので、しおり作成の時には、黒板を使って説明をしたりします。)

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マザーベイビースクールの黒板

ここで体感した・伝えたいことはいろいろありますが、今回の記事の中で伝えきるのは困難なので、タイトルの内容に絞ってお伝えします。

 

当時からこれに近いことを考えていました。 

dewahisashi.hatenablog.com

(どこかでちゃんと書きたいと思っているのですが)端的に言えば、

「自分自身が意思決定しながら進む人生」を歩めるための教育が必要だと思っています。 

 

そのためには、世の中を知り、複数の選択肢の中から自分の道を決めることが最低限必要です。

そこで、今インドの子どもたちは何を考え、どんな夢を抱いているのか聞いてみたかったので、学校に通う子どもたちに将来の夢を聞いてみました。

すると以下のような回答がありました。

  • 学校の先生
  • 警察官
  • リキシャ―運転手(人力車の運転手)
  • お店の店員さん

一見バラバラな職業に見えますが、共通しているのは「子どもの目に見える職業しか選択肢には入らない」という単純な事実です。

 

当たり前と言えば当たり前なのですが、そんなことにインドで気づかされました。

私の目指している「意思決定のできる人生」を歩むためには、「知る」という工程が決定的に重要ということです。

 

 

世の中のことを知らないから職業が選べないという事態は、インドだけでなく日本でも同様に起きています。

インドで接した子どもたちは小学生くらいでしたが、日本の小学生に聞いても出てくる夢は目に見えるところでしょうし、大学生に聞いたとしても結論は同じだと思います。

その結果、就活では自分自身に軸を置かず「企業名」を見て、知ってるから選考を受けるという事態を引き起こしていると考えます。

 

この経験から意思決定をするためには、以下のプロセスが必要だと学びました。

知る⇒選択肢を並べる⇒選ぶ基準を作る⇒決定する

私が目指す教育を実現するためには子どもたちに知るきっかけを提供することが必要です。(その観点において、キッザニアや13歳からのハローワークは非常に素晴らしいと考えています。)

 

この文章を今学生の方が読んでいて、自分の力で意思決定をしたいのであれば、まず圧倒的な行動をもとに知る努力をしてみてください。

頭の中にある情報やネット上にある情報を自分基準で選んでいても情報量は圧倒的に不足します。(これは経験則なので、もしかしたら私が古い人間なのかもしれません。)

 

インドの旅行の話から急転直下で教育の話に遷移しましたが、私の目指す教育像に近づくための1歩目を痛感した経験だったので、今回記事にさせてもらいました。

 

他にも旅行での強烈な体験はあるので、いずれブログにしていこうと思います。

 

では。

奨学金問題で問題なのは、制度ではないでしょ。

前回は新入社員向けの話をしましたが、4月は入学の時期でもあるので、数年前から話題に挙がるようになった”奨学金問題”について私の意見を書いておきます。

この話を通して、これから大学に入る方々には、世の中に対する視点を持ち、意識・行動を少しでも変えてもらえたら、と思います。

奨学金制度を活用する・しないに関わらず、ご参考になればと。

 

そもそも”奨学金問題”って何?

例えば以下の記事のような問題です。

www.newsweekjapan.jp

簡単にまとめるとこんな感じ。

  • 昔(大学生の親世代が思っている)よりも、入学金+授業料は公立・私立問わず高くなっている。
  • かつ、大学進学率が高くなっていくにつれて、経済的なゆとりがない人も大学に入るようになったことで、奨学金制度を使う人が増えた。
  • 結果、奨学金を返済できない人が増えてきたことで、自己破産や果てには自殺といった問題が露呈してくるようになった。

すごく端折っていますが、まずこういった問題があることを知ることが大切です。

特に奨学金を使っている人はよく理解しておくべきです。

 

 

そして、これらの問題に対してよくある議論が以下のようなものです。

<A:貸した人を守る派>

  • 借りたお金を返すのは当たり前だろ。

<B:借りた人を守る派>

  • 奨学金は教育(次世代の人材を作る)元手なのだから、返済義務を無くすべきだ。(=給付型の奨学金とすべき)
  • 返済を免除する条件を緩和すべきだ。

端的に言えば、「奨学金をローンとしてみなすかどうか」「ローンとみなす場合、教育目的なので条件を緩和すべきか否か」という議論であり、結局奨学金という”制度”の話をしています。

 

奨学金問題ってこういう議論をし続ける限りは解決しないと思います。

例えば、全ての奨学金を給付型にした場合、一時的には問題が解決しますが、奨学金の拠出元の負担額が増えるのは明らかなので、永続的に続けることは不可能でしょう。

一時的に解決することに意味はないでしょう。

 

この問題に対しては、制度をちょこちょこいじるのではなく、国レベルで取るべき施策と個人単位で取るべき施策があると考えています。(自治体や団体は制度を頑張ってよくしてください。)

これを読んでいる学生の方々に意識してもらいたいのは後者の個人単位で取るべき施策のほうですが、まずは国レベルで取るべき施策から述べたいと思います。

 

国レベルで取るべき施策

すごーく簡単です。学校数を減らせばいいんです。

大学数を減らして、1大学あたりの入学者数を増やせば、奨学金問題は問題にならなくなります。

 

学生向けにもう少し詳細に記載します。

<大学側の論理>

大学の売上を構成するのは、受験料+入学金+授業料です。

それぞれを因数分解すると、

  • 受験料 = 受験者数   × 受験料
  • 入学金 = 入学予定者数 × 入学金
  • 授業料 = 在校生数   × 授業料

少子化が進んでいることを考えると、右辺の”数”は減る傾向にあり、かつ数多くの大学が学生を奪い合っています。

大学が同じ規模あるいはそれより大きな売上を上げるためには、右辺の”料”を上げるしかありません。

なので、このままでは今後も大学が学生個人に負担させる金額は増えていくでしょう。

そこで”数”を奪い合っている大学数を減らして、残っている大学に人が集まるようにすれば、1大学あたりの”数”は増え、個人負担となる”料”をむやみに上げなくとも大学経営としては成立します。(大学がさらなる売上を狙いに行くと”料”も増えていきますが。)

そのため、不要な大学を減らせばよいのです。(自由競争からは外れてしまいますが)

 

 

ちなみに、個人単位での話につながりますが、より残酷な言い方をすると、大学に行く必要もないのに奨学金を支払って大学に行っている人が多すぎる、というのが問題です。

周りが大学に進学するから進学する人も多いでしょう。しかし、大学に行くことによって失う時間・お金と得られる効果の比較ができていない人が大量にいます。

 

 

そもそも、大学全入時代の今、大学に行っていること自体に差別化要素は無いです。

むしろ高校を卒業してからの4年間をどのように使うのか、という視点を個人単位で持つことこそ大切です。

高卒で働いている人の立場から言えば、卒業後の4年間が、大学に入っている人の4年間よりも意味があり、世の中に対して貢献できることが言えれば「勝ち」なんです。

これからの時代は大学が意味を持つ時代は終わっていき、個人に属する何かが意味を持つ時代に変わっていくので、そこに意識を十分に向けてみてください。(この辺の話はこちら。)

 

話を戻すと、行って効果のない大学であれば、行く必要なんてないんです。

効果が無いにもかかわらず、自分の時間と人から借りたお金を失って大学に通い、就職して破産するって、どう考えてもおかしいでしょ?

これはいわゆる偏差値の低い大学だから行く必要が無くて、高い大学だから行く必要がある、という話ではないです。

要は、その人にとって行く意味があるかどうか、です。

 

その観点においても、行く必要が無い人が不用意に大学に行かないようにするためにも、大学の数は減らせばいいと思います。大学の数を減らしたら、そこで働いている人以外には、良いことしかないと思うんですけどね。 (補助金も減るし。)

 

 

ではこの流れで、

個人単位で取るべき施策

現時点で大学数が減っているわけでもないので、国や自治体に依存しても何も生産的なものは生まれません。また、今この瞬間奨学金制度が変わるわけでもないので、学生個人が最大限できること、という視点で考えたいと思います。

端的に言えば、能力を向上させて世の中から必要とされる人材となれ!です。

今回の問題の本質は、奨学金をもらって大学に通っているにもかかわらず、就職先の給料では奨学金の返済ができていない、ということです。

そうなると、返済ができない理由は単純で、

  • 収入 - 費用 = 利益

でしかないので、①収益が不足している or ②費用が多すぎるの2択です。

 

②に対して、費用を減らす手法も取りえますが、費用の中に奨学金の返済や家賃等の固定費があり、これらを減らすのは困難です。(これらを減らすことができるのであれば、ぜひ減らしてほしいところです。)

また、何のために大学に行っているのかを考えれば、コストを減らすことを目的に大学に行っているのではないでしょう。

①に対して、収益を増やす、つまり高い給料をもらえるようにする、これに尽きます。

 

そのためには、大学の4年間で得られるものを最大限高めていただきたいです。

大学の勉強をシャカリキにやるのもよし、サークル・学生団体に真剣に取り組むもよし。

ただ、就職活動のために、良い就職先から内定がもらえるようにするために、頑張るのはやめてほしいです。

そんな短絡的な目標設定で頑張るのではなく、「市場から求められる人材」になるよう最大限の努力をしてもらいたいです。(理由はコチラ

 

そうすれば奨学金の支払いが滞るなーんてことは起きないはずです。

 

 

 

ちょっと長くなってしまいましたが、大学に入る人に向けたメッセージを最後にまとめます。

  • 世の中にはいろんな問題があるので、ぜひそれに目を向けてください。
  • 高卒の人がこれから過ごした4年間の方が意味がある、と感じないよう、自分の価値を向上させるような4年間を過ごしてください。

ぜひ実りの多い大学生活を過ごしていただければと。

では。

入社1年目の社員が意識し、実行すべきたった1つのこと。

新入社員の皆様、入社おめでとうございます。

東京では桜が満開で、新元号:令和が発表され、まさに新生活を始めるという変化のタイミングとしては、これ以上ないの時期に入社ができたことを羨ましく思います。

私が入社したのは震災直後の2011年4月だったため、東京は全体的に薄暗く、日本全体としても意気消沈した雰囲気に包まれていたことを考えると、今年は良い時期だと思います。

 

そんな皆さんに向けて、少し先を生きている人としてメッセージを送ります。

 

もう安定なんてない。

すでに痛感している人も多いと思いますが、国や企業にすがって生きていく時代はすでに終わっています。公務員であっても、大企業の社員であっても、組織にすがって生きていくことはできません。

 

大企業であれば、平成時代にいくつも大企業と呼ばれる会社が倒産していることを見れば安泰なんてあるはずないことはわかると思います。(倒産まで至らなくとも、企業は残るけどヒトが切られるって可能性もありますし。)

公務員なら国が守ってくれるから大丈夫!と思っている人がいるかもしれないですが、そんな考え方は今すぐに捨ててください。

日本の人口が全体的に縮小傾向にある中で、もはや地方自治体を現在の数のまま維持するのは難しいでしょう。そうなると、国としては民営化させるか、地方自治体を統廃合するかの2択になります。また、人の数を減らしていく可能性も大いにあります。

それ以外の会社に勤める人は、「会社に頼ったりするわけないじゃん」って感じかと。

 

なぜこんなことを言っているか、というと、就活市場が強い売り手市場だったからです。

売り手市場では、就活生(今年の新卒入社者含む)の力を錯覚させます。

本来の自分の力と関係のない力学が働いてしまい、自分の能力とマッチしていないまま就職できてしまう人も多く生まれるのが売り手市場です。

そのため、自身の力を過信してしまうことを懸念しています。

 

じゃあ何を意識していくべきか。

市場(マーケット)で求められる人材になること

これに尽きます。

属している組織の先行きが見えない中で、唯一リスクヘッジになるのは、いつでも他の場所で生きていける状態を作ることです。

厳密には、「ほかの場所で生きていければよい」ので、同じような市場で働き続けられる状態を作るという選択肢以外にも、

  • 積極的な投資を行い、労働しなくても生活できる状態を作る
  • 自給自足をできるようにして、周りの環境に依存しない状態を作る

といった手法をとることもできます。自分に合っているのであれば、どの手法を使ってもよいと思います。

 

現時点で就職を選んでいるということは、一旦は労働市場で働く意思決定をしている(そんな意識が無い人もいると思いますが)ので、自身の能力を向上させることを勧めます。

 

ここで注意してほしいのは、評価軸は「市場(マーケット)」という点です。

先輩から気に入ってもらえることでも、会社の評価基準で好成績を残すことでもありません。

世の中で求められていることを実現できる能力を身に着けることです。

属している業界によって求められる能力は異なるため、それぞれによって必要なものは異なります。

でも、ここは学校ではないので、何で評価されるのかを教えてはくれません。

自分で考えるしかないのです。

 

この点が、新卒社員のなかでできる人・できない人が分かれます。

そしてこれができる人は、おそらく会社の中でも成果を積み上げられます。

 

そっちの社員になるために、こんなことを実行してみてください。

会社の評価項目のウラ側を考える。

どの会社にも評価項目があります。

その評価項目がなぜ設定されているのかを真剣に考えてみてください。

例えば営業職で、「売上をXXX万円獲得すること」みたいな項目がある場合、

  • なぜ売上なのか?利益額ではなく、売上としている理由は?
  • 売上を獲得することが、市場においてどんな能力として評価されるのか。
  • なぜXXX万円なのか。

こんな風に頭を振り絞って考えてみてください。

こうすることで、会社の裏側、つまり会社がその業界において生き残る方法が見えてくるのです。

評価項目には会社の人材に対する想いが現れます。会社を成長させる(もしくは生き残らせる)ためには、それを実行する人の成長がとても大切です。そのため、人の成長のベクトルを示す評価項目について、よく考えればその業界(市場)で評価されるポイントが見えてきます。

あとは、それに向かって全力投球でがむしゃらに実行してみてください。

どんなに頭を使って考えたとしても、実行が伴わなければ得るものはないですし、実行すれば見えてくることもあるので、失敗を恐れずにどんどん実行してみてください。新入社員が起こす程度の失敗は、だいたい取り返しがつきます。

 

ということで、結論。

市場で求められる人材になることを意識し、どんどん実行!

学生のころの誰かに依存した状態から脱却し、自立した社会人になるために、世の中を意識しながら成長を続けてください。

では。

グローバル化は進歩なのか後退なのか。

昨今のグローバル化はすごいと思います。

地元が田舎だったこともありますが、子どものころに外国人を見かけることなんて全く無かったのに、最近では(都会に引っ越した影響もあるかも)外国人がコンビニや牛丼チェーンで働いていることも多く、見かけない日が無い、というレベルで、ヒトの交流が進んでいます。

もちろんヒトだけでなく、輸入品も街中ではすぐに見つけられるし、情報だって海外で起きた出来事を現地と同じタイミングで仕入れることだってできる。

これって本当にすごいことだと思います。

 

大航海時代前では、ヒト・モノ・カネ・情報の交換は基本陸路でしか行われないので、大陸をまたいだ交換はできない。

大航海時代を経ることで、ヒト・モノ・カネ・情報の交換はそれまでと比べれば容易になりましたが、船を使っての交換なので、交換に要する時間は長く、運送時のリスク(欠損・破損)は高いものでした。

20世紀に入ると、飛行機が登場しインターネットが登場し、ヒト・モノ・カネ・情報の交換が、それまでと比較にならないほどのスピードと質で実現できるようになりました。

 

こういった時系列で追ってみると、人類はなんとかして他の地域の人々との交換を、より広範囲に、より早く、より安全に実現できるようにしてきた、ことが伺えます。

 

そのことによる影響は実感しづらいかもしれないですが、非常に大きかったです。

 

大航海時代では、食品保存用の香辛料の獲得を目指して、ヨーロッパ⇒インドに航海して、獲得できたことで食品の保存ができるようになった。つまり、生存の可能性が上がった。

他にも、国ごとの役割分担を形作っていったという見方もできます。ヨーロッパは消費・生産管理を中心とした国として発展し、アフリカ大陸は生産を中心とした国として発展、のようなものです。

 

そのころは国ごとの差別化が強すぎたため、結果として搾取する側・される側といった構図に行きついてしまいましたが、最近では徐々にそれもなだらかになりつつあります。(現実として解消には程遠い状態ですが、「それって良くないよね?」という風潮が出てきただけでも、歴史的には大進歩。)

 

同じように現代のグローバル化においては、特に情報交換が早く・正確になったことで、物理的には離れているにも関わらず話をすることが容易になることで、世界が一つのものかのような状態を作り上げられています。

もちろん、それはヒト・モノ・カネにおいても同時的に発生しており、「世界は1つ」の世界が実現しつつあると思います。

これに加えて「どこでもドア」ができれば、もはや完全なる「世界は1つ」状態になるのでは、と思えるほどの状態です。

 

前述の内容と重複しますが、これらの内容は、ヒト・モノ・カネ・情報の他地域との交換を、より広範囲に、より早く、より安全に実現できるようにしてきた進歩、と考えるのが一般的でしょう。

 

では、ここで逆の視点から見てみます。

 人類の進化の歴史をさらに昔にさかのぼって見てみると、「分化」の歴史だったと見ることができます。

元々人類はアフリカに起源があるといわれていますが、そこからの進化の過程でヨーロッパ・アジア・アメリカ・オセアニアといろんな地域に分かれていく中で、それぞれの地域に合わせた進化をしてきました。

そして、その地域ごとに地域に合わせた衣食住を整えて、(この歴史的スパンで言えば)つい最近まで生活をしてきました。

いわば、それぞれの地域に合わせて生活できるように「分化」し、その地域に適応する形で「進化」を遂げてきました。

 

大切なのは、人類の歴史で言えば”ほとんど”が「分化」の歴史だった、ということです。

最初の人類が誕生したと言われているのが400万年~300万年前なので、大航海時代が始まった約500年前~現在は、その中のわずか0.02%しか該当していないです。(有史の4000年で考えてもわずか0.13%)

それだけ長い期間をかけて分化をして、各地域に適合していった進化を、わずか数百年で統一していこうとしている動き=グローバル化、と見ることもできます。

 

グローバル化を推し進めることにより、各地域の差が無くなってしまい、有事の際に対応できなくなってしまう可能性もあります。(例えば、災害によって現代的な生活が送れなくなり、原始的な生活しか送れない状態になった際に、果たしてグローバル化した状態で人類は生き残っていけるのか?等)

 

 

生存戦略として人類は分化することを選択していったにもかかわらず、次の人類の進化の一手がグローバル化(=全世界の均一化)というのは、果たして「進歩」と言えるのでしょうか。

 

「進歩」と捉えることもできるだろうし、「後退」と捉えることも可能でしょう。

もう数百年くらい経てばきっと答えは出ているのでしょうが、今時点でそれを全て予測しきるのは無理ですし、グローバル化の流れをこのタイミングでゆっくりにさせることは困難でしょう。

とはいえ、ちょっと極端な話かもしれないですが、こういったことに対して自分なりの意見を持つことは必要だと思います。

 

私は、グローバル化=進歩、だと思っています。

 

では!

学生国際協力団体SIVIO(東海支部)を設立して10年経ち、今思うこと。

学生国際協力団体SIVIO」という学生団体をご存知でしょうか?

 

「僕たちは世界を変えることができない」 という書籍・映画で、カンボジアに小学校建設をする、という話が話題になっていたかと思います。 

 学生国際協力団体SIVIOもこれと同じような団体ですが、支援先がラオスというのが違いです。

 

実は、学生時代にこの団体に所属していました。

当時、京都・東京に支部があり、そこにいる学生たちがラオスに小学校建設の支援をしていることを知りました。

SIVIOを知る直前に、最初で最後のラオス旅行だ!とラオスに行っていたので、自分は遊んでいただけの国に支援をしている学生がいる、というのは非常に衝撃的でした。

 

その後、ほかにも活動をしていたので、SIVIOとはしばらく距離があったのですが、様々な理由から名古屋にもSIVIOを作ってみよう!と思い、東海SIVIOの設立にいたりました。

当時が2009年だったので、早いものでそれから10年経ちました。

 

10年、というちょっとキリの良いタイミングなので、SIVIOに対して今思うことを書いてみようかな、と思います。

(全然関係ない話ですが、るろうに剣心斎藤一が言った「十年…… 言葉にすればわずか二文字だが 生きてみれば随分長い年月だったな」が染みます。。)

 

【自分自身について】

 

自分を成長させてくれた団体

今の自分を形作るにあたって、SIVIOでの活動は非常に有益でした。

コンセプトや支援方法はすでに存在していましたが、ゼロから組織を立ち上げ、イベントを回していくという経験は、恐ろしいくらいの成長をもたらしてくれました。

最初は一人しかいないので、メンバーを集めるにしても自分一人で集め方を考える必要がある。

メンバーが集まったら集まったで、メンバーのマネジメント方法は自分で考える必要がある。

名古屋にスポンサーはいないので、スポンサー集めを手探りで始める。

そういったゼロから全てを始める経験は、今振り返っても非常に活きていて、今の自分を形作ったといっても過言ではないと思います。

 

仲間作りができた

10年も経ると当時仲の良かったメンバーも徐々に疎遠となっていきます。(住んでる場所が離れたり、家族ができたり、と。)

だけど、今でも繋がっている仲間がいて、一緒に遊ぶこともあれば、一緒に働くこともある。

そんな仲間ができたのは今も自分に残る大きな財産だな、と感じています。

 

【SIVIOについて】

 

10年以上も続いてすごい。

これは率直な感想です。

当時はコン村というルアンパバーンから車で数時間の箇所に小学校が建ち、増設だ!という時期でした。

それから10年で4つの小学校が建ち、中学校が建ち、それらの学校に対して継続支援をしているようです。

私が活動していた時期に存在していた学生団体も今では多くが無くなってしまっているなかで、今も継続していることだけでも十分にすごいことなのに、さらに支援も続いている。

これは素直にすごいと思います。

SIVIOでは活動開始した学年を起点として、1期・2期と呼ぶのですが、すでに12期?13期?もはや分からないのですが、自分のいた当時の記憶からすると、もうよく分からないです。笑

こういった支援団体はいかに継続していけるのか、が非常に大切だと思いますが、それが愚直にできているというのはOBとして誇らしい限りです。

 

もっといろんなことをやればいいのに。

これは期待を込めて、こんなことやったら?という話です。

SIVIOの主な活動は以下の通りです。

  • ラオスへの支援(ハード:学校・宿舎建設、ソフト:電気工事、文房具寄付等)
  • イベント実施(クラブ・フットサル・フリマ・運動会等)
  • 街頭募金活動

そのほか、内部的には支部内のミーティングや支部間をまたいだ総会があります。

今回久しぶりにSIVIOのホームページを確認したところ、こんな感じでした。

 

が、これらのことは10年前から大きく変わっていないです。

もちろんイベントのバリエーションは増えているし、メンバーも拡大しているし、発展的な成長はしているのですが10年前の仕組みから変わっていないです。

 

せっかく学生団体をやっているのだから、より大きな影響を与えられるような新しいことを始めてほしいな、と。(もしかしたら、検討しては潰えているのかもしれないですが。)

 

例えば、

  • ラオスへ学生を送り込んで、現地の生活・状況をレポートする。
    SIVIOにはチャリティームーブメントを起こす、というミッションもあります。SIVIOがハブになって、ラオスに学生を送り込み、現地の状況を伝えていく、というのも大きな役割になるのでは?と。
  • ラオス学生の日本留学支援。
    1つ目の逆です。ラオスから日本に留学するお手伝いをする。
    ラオスはまだまだ貧しい国なので、日本に留学するチャンスは非常に少ないです。これまでに支援して設立した学校の卒業生を日本に迎えて、ラオスについて知る機会を増やすとともに、ラオスの人にとっても広がりを与えることができる。

今のSIVIOは、お金とモノの交流はあるのですが、人や情報の交流がないため、こういった活動を通じて、ラオスを知ってもらう・支援をする、というのもアリでは?と感じます。

ラオスに支援を10年以上も続けられる団体なんだから、難しいけどできると信じてます。

別にこれらじゃなくても良いし。

 

現役のSIVIOメンバーがこれを見るかどうかは分からないですが、このブログを通じてSIVIOという団体の存在やその良さ、ラオスの存在を知ってくれれば、OBとしては本望です。

 

わずかにでもお世話になったSIVIOへの恩返しができればと。

 

では。

新卒での就職活動で考え抜くべきたった一つのポイント

3/1から新卒の就職活動が解禁され、学生も本格的に動き出したように感じます。

私自身もOB訪問のマッチングサイトに登録しているのですが、3月に入ってから学生からの面談申込が一挙に来ました。

それはそれでどうなのか、と企業側にも学生側にも思うところはありますが。。。

 

まー、そんな中で、学生と話をするなかで色々と感じることはあるのですが、就職活動を始めた学生に向けて先輩として1つ助言をしたいなと思います。

 

就職活動をするなかで学生は学生なりにいろいろと考えているのですが、明らかに意味のないポイントについて考えて(あるいは悩んで)いることも多々あります。

就職活動をうまく進めていくためには、実際には色々と考えなければいけないポイントはあります。

が、そんなにたくさんのことを一度に理解し、意識付けするのは難しいため、あえて1つだけに絞ってお伝えしたいと思います。

 

なお注意点ですが、ここで述べる方法は、ただ内定先を得られれば良い、という就職活動ではなく、自分のやりたいことを実現するための手段としての新卒の就職活動にフォーカスして述べていきます。

 

では、早速ですが結論。

 

結論:”徹底的に”自己分析しましょう。

 

 

あえて極端なことを言うならば、自己分析さえしていれば就職活動は乗り切れます。

 

ただし中途半端な自己分析で終わってしまっては全く意味がありません。

また、企業に合わせるような自己分析をしてしまっても意味がありません。

 

企業とか関係なく、ただひたすらに自身と向き合う自己分析を徹底的にやる。

これができれば、就職活動は乗り切ることができます。

 

なぜそこまで言い切れるか。

 

一つ目は、自分が所属したい組織がどんな組織なのかが明確になるからです。

最近でも大手企業への熱が高いと知って驚きましたが、学生側がどんな組織(必ずしも企業とは限らない)に属したいのかが分かれば、その企業だけ採用に応募すればよくなります。

もちろん、自分の軸が明確になったとしても、その企業がその軸に合っているのかを見極める工程は必要となりますが、軸が明確(評価項目として列挙されているレベル)になれば、点数をつけていくだけなので、企業調査はアッという間に終わります。

「企業名」から自分の就職活動を出発するのではなく、「自分の軸」から自分の就職活動を出発することができるようになるため、自己分析は有効です。

 

 

二つ目は、思考力が上がるからです。

自己分析を徹底的にするためには、いろいろな切り口で自分を切り刻み、さらにその一つ一つを深堀していく必要があります。

それらの作業(思考)は決して簡単なものではなく、かつ正解がないため自分自身で考えをめぐらす必要があります。

「徹底的に」自己分析するためには、ロジカルシンキングクリティカルシンキングを駆使しながら考えていく必要があり、またその量も膨大なものとなります。

そのため、結果的に思考力は鍛えられます。

そこまで鍛え上げられた思考力を以てすれば、スキル面においてはES・面接・グループディスカッションなんて簡単にクリアすることができます。(かつ、徹底的にやるためには必要な行動も取る必要があるので、行動力も上がっていく。)

あとは企業側が求めるマインドとマッチしているか、がポイントとなりますが、それも一つ目のポイントで抑えられているので、概ね問題ないでしょう。

 

これらのことから、私は自己分析を徹底的に行うことをお勧めしています。

 

 

けど、実際にはそのレベルにまで達するのは非常に難しいと思います。(=一部の学生にしか到達できない。)

 

一つ目の理由は、この思考には非常に時間がかかるからです。

早くても3か月程度は、自己分析に充てる時間がないと、考え抜くことは不可能です。(そのくらい自分の人生は深く・広いと思ってください。)

それゆえに、途中であきらめてしまう(8割の完成度でOK)としてしまう学生が非常に多いです。

 

二つ目は、正解のない思考ができないからです。

学校で習ってきた答えのある問題と異なり、正解のない問題への取組となるため、多くの学生は何を考えてよいのか分からない状態となります。

かつ、自己分析はFBをくれることもありません。

企業面接では、なぜか分からないけど、合否は出る。けど、自己分析に合否はない。

合否さえ分かれば、自分の進んでいる道が正しいかどうかが分かるのですが、それすらないため、自分の進んでいる道が正しいか分からないです。

なので、自己分析を始めた学生は迷走状態に陥ることになります。

それに不安を持つことは良いのですが、不安を解消するために正解を求めてさまよい歩き続ける学生は、変なアドバイスを受けてより深い迷路へと突入していきます。

この不安状態を持ちながらも(アドバイスを聞いても良いですが)自分なりの考えをひたすら深め続けられる人にしかゴールは見えてこないです。

 

そのくらい難しいことを求めているのが、私の言っている「徹底的な自己分析」です。

 

就職活動のゴールは人によって違うし、その到達経路も人によって違います。

その中で唯一羅針盤となるのは、自分自身の基準を明確化することです。

そのためにも、非常に険しい道ではありますが、自己分析をやってみてください。

 

何の参考材料も無いとつらいと思うので、思考の”とっかかり”を提示しておきます。 

絶対内定2020 自己分析とキャリアデザインの描き方

絶対内定2020 自己分析とキャリアデザインの描き方

 

 では。

新たな言葉が生まれるのに、新たな漢字って生まれないよね。

最近知った言葉としては「エモい」かな。

Wikipedia先生によると以下の意味らしい。

エモいは、英語の「emotional」を由来とした、「感情が動かされた状態」、「感情が高まって強く訴えかける心の動き」などを意味する日本語の形容詞。 感情が揺さぶられたときや、気持ちをストレートに表現できないとき、「哀愁を帯びた様」などに用いられる。

若者言葉としての「エモい」自体は2007年頃から存在していたが[1][6]三省堂の「今年の新語 2016」で2位にランクインしたことをきっかけに話題になった

音楽業界ではもう少し前からあったらしいですが、いずれにせよ日本で生まれた言葉です。

 

他にも、若者からいろんな言葉は過去にも生まれていて、

 みたいなのは代表格な気がしています。(一時的な流行で消えていったものも数知れず。)

 

でもこういうのって全部ひらがな・カタカナでしか表現していないんですよね。

いろんな言葉が生まれているにも関わらず、なんで新たな漢字って生まれないんだろう。

日本語の文章を構成するのは、以下の種類。

  • ひらがな
  • カタカナ
  • 漢字
  • (記号)
  • (外国語)

外国語は日本人が生み出すものではないので、新たなものを日本人が生み出さないのは納得。(エモい、みたいな外国語を応用して日本語化することはあるけど。)

ひらがな・カタカナの新語は一杯生まれていく。

2018年の新語は「映える(ばえる)」らしい。三省堂 辞書を編む人が選ぶ「今年の新語2018」

でも新漢字って生まれない。

 

ツイッター上では「新漢字を生み出しました」ってのもあるけど、認知度は全然広まらない。

なんでだろうー、って思っていたけど、考えてみたらすぐにコレじゃないかというのが浮かんだ。

 

1.スマホ・PC上にないから。

これが一番の原因じゃないかと。

新しい漢字を社会人になってから覚える時って、読むか書くかのどちらかをするしかないんだけど、新漢字が生まれてもスマホ・PC上で変換は当然できないし、記事になることもないから、目に触れる機会がない。

だから、当然広まることもない。

逆に言えば、PC・スマホ上で変換ができれば新漢字も認知度が広まっていくんじゃない?

「エモい」みたいな新語が生まれたら、それに合わせた漢字を作って、辞書ツールに放り込んであげればいいんじゃない?辞書を更新してるんだから、スマホ・PCでも当然やれそう。

そもそもとして、「エモい」を漢字にする必要があるかは置いといて。

 

 

2.言葉に出す時に、漢字は見えないから。

「エモい」って言葉に漢字を当てても、こういう言葉は認知度が上がっていく中で、すでに「エモい」というひらがな+カタカナの組み合わせで広まっていくから、後追いで漢字にする必要性があまりない。

そのうえ、漢字にしたところで話し言葉では「エモい」は「えもい」でしかなくて、漢字を作る必要性が高くないとも思う。

早い話、漢字にしなくても困らない。

 

こんなことが理由で、新漢字って作られないし、広まらないのではないかなーと。

 

ここまで考えてきて、最後に疑問が残るのは、漢字しかない国:中国では新たな言葉が生まれるときに、どうしているのか。

中国語だろうと、それまでに存在しない若者言葉は生まれていそうだし、それらがこれまでの漢字で不足するときってどうしているんだろう?

 

考えられるのは、

  • 既存の漢字の組み合わせを変えて表現する。
  • 新しい漢字を編み出して表現する。
  • 他言語(英語とか)で逃げる。(=漢字を使うのをあきらめる。)

くらいなんだけど、こればかりは中国語を知らないと分からないなー。

もし知っている人がいたら、教えてください。

では!