でわひさしの日記

世の中、教育、仕事、趣味などに関して、日々感じたこと・考えたことをつらつらと。

”喫茶店”と”カフェ”の違いって何だろう?

以前に愛知県にある喫茶店の素晴らしさについて語りましたが、私は喫茶店を愛しています。

”カフェ”ではなく”喫茶店”が好きなんです。

 

でも考えてみれば”喫茶店”と”カフェ”って何が違うのだろう・・・?

 

ググれば飲食許可がどうのこうの、みたいな定義は出てくることは予想されますが、普段お店に入る・入ったときに、

「このお店は〇〇許可があるから”喫茶店”だー」とか考えないですよね?

入る前・入った瞬間に、「これは喫茶店だ!」と感覚的にとらえますすよね。

 

その違いを考えてみようかなーと。

厳密なルールは興味が無いので、そっちを知りたい方はご自身で調べてみてください。

何を以て喫茶店だと思うのか、何を以てカフェだと思うのか。

 

参考までに、喫茶店コメダ珈琲店・個人経営のやつとか、カフェ=ドトール・スタバとかをイメージしながら考えています。

 

①ハードで考えてみる。

A:独立店舗なら喫茶店

お店が独立した店舗形態(国道から1本入った道とかにありがち)なのは、喫茶店

この形態でカフェって見たことがない。

一方で、テナントに入っている=カフェ、とは限らない。エキナカに喫茶店もよく見るし。

 

B:ふかふかソファがあれば喫茶店

茶店って長居できるようにふかふかソファがありがち。

でも最近のカフェのなかには、ソファがあるところもあるから、決定的な差ではない。

 

C:雑誌・新聞・単行本が置いてあったら喫茶店・なければカフェ

茶店には、雑誌やらマンガやらがとりあえず置きがち。喫茶店では100%に近い確率で置いてある。(経験談

カフェの中には置いてあるところもあるのだろうけど、割合としては数%だと。(経験談

これは結構見極める際に感じていそう。

 

D:ゲームが仕込まれてるテーブルがあるのは喫茶店

最近の喫茶店ではあまり見なくなった気もするけれど、麻雀やポーカーのゲームがテーブルに仕込まれているのは喫茶店でしか見たことがない。

小さなころはそういうテーブルの席が好きでした。

こういうやつです。

100円玉タワーを作り、喫茶店でハマったテーブルゲーム達 - Middle Edge(ミドルエッジ)

カフェではこういうのを見たことがないし、ありそうな雰囲気すらない。 

 

②ソフトで考えてみる。

A:セルフサービスはカフェ、オーダーを取ってくれるのが喫茶店

カフェと呼ばれるところでは、セルフサービスが基本となっている。

一方喫茶店は、レストランと同じサービスレベルで、まず水とおしぼりが出てきて、店員さんがオーダーを取りに来てくれる。

これは割と明確な差としてありそう。

 

B:ミックスジュースがあれば喫茶店、なければカフェ

個別のメニューを見ていけば、〇〇があるのは喫茶店、××があるのはカフェ、みたいなことが言えそう。

ミックスジュースは喫茶店でしか見たことない気がする。

あと、焼きそば・ナポリタン・ピラフのあたりも喫茶店にしかない気が。

逆に、お酒はカフェでしか見たことのない気がする。(プロントのイメージ)

サンドイッチやパンケーキはどっちでも出てくるな。

 

そうなると、食事がメインなのは喫茶店、飲む(+軽食)メインなのはカフェ、とも言えそう。

 

C:コーヒーチケットがあるのは喫茶店、なければカフェ

10枚で3000円みたいな、コーヒーチケットを売っているのは喫茶店のイメージ。

今の時代にどれだけこの仕組みが生き残っているのかは怪しいところ。。。

コーヒーチケットを購入してお店に置いておけば、次回以降手ぶらで来ることもできるってあのアナログな仕組みは、結構好き。電子マネーにはない情緒がある。

きっとボトルキープみたいな感覚で流行っていったんだろうな。

 

D:あだち充漫画でデートの待ち合わせに使いそうなのは喫茶店

タッチやH2でデートの待ち合わせに使っていたのは喫茶店だった気がする。

(そもそもタッチに出てくる”南風”こそ、喫茶店の象徴な気もする。)

茶店のほうが絵にはなるのかなー。カフェはカフェでおしゃれだから、どうなんだろう。

 

んー、いろいろと考えてみたけれど、これだ!というものはない。

たぶん瞬時にこれらの違いを感じ取って、喫茶店だ!とかカフェだ!って考えるんだろうな。

 

何か他にも差があればぜひ教えてください。

 

では!

頭を使って考えて、イメージ通りに体を動かすとスポーツはうまくなる。

昨日・一昨日に10年ぶりにスノボに行ってきました。

スノボは10年やってなかったので、かなり久しぶりで体の使い方なんてほとんど覚えていませんでした。

それでも、それなりに滑ることができた(と思っている)のは、生まれ持った運動神経以外にもあるのではないかと思い、久しぶりにスノボをやったときに自分がどう考え・どう動いたのかを分析してみました。

 

スノボのほかにも頻度に差はあれど、社会人になってから始めたスポーツはいくつかあります。(厳密には、スノボは大学時代に経験していますが。)

  • テニス(現時点で5年程度、年6回くらい)
  • ボルダリング(現時点で2年程度、年2~3回くらい)
  • ゴルフ(現時点で半年程度、月2~3回くらい練習やコース)
  • スノボ(今回10年ぶり)

そのたびに初めてやるスポーツで大切となるポイントを考えてきました。

今回のスノボでも同じように大切なポイントを考えながらやりました。

 

私の運動神経は”中の中”、ないし”中の上”程度だと思っています※が、それぞれのスポーツを始めた時にスタートダッシュがかけられるかどうかは

  • 頭を使って考えたかどうか
  • 思い通りに体を動かせるか 

だと考えています。

そして、これらのことは後天的に鍛えられるものではないかと。

※私の小学生時代を例に挙げれば、ボール投げはクラスで1番になれるけど、徒競走ではビリに近いといったレベルの運動神経。

 

 

今回スノボに行く!と決めたので、私はYoutubeでスノボ関連の動画を見ました。

目的は「スノボの基本を学ぶこと」です。なんせ久しぶりなので。

靴の履き方、ボードと足の合体のさせ方、立ち上がり方、歩き方、滑り方(超基本)、滑り方(基本)のようなコンテンツを1時間半程度で一通り見ました。

本当に基本的なところから見始めましたが、その中で以下のポイントを掴みました。

  • 滑る(=転ばない)ためには、重心を低く保つことが大切
  • 滑る(=転ばない)ためには、板から体をはみ出さないことが大切

 

結局どちらも「バランス」を崩さないために大切なポイントなのですが、結局大切なポイントはこれだな!と1時間半ほどの動画から抽出しました。

ほかにも細かなテクニックは色々とYoutubeでは紹介されていたのですが、全てを意識して滑ることなんてできない!と自分に対してさじを投げているので、意識できる範囲を自分で考えて設定しました。

 

 

そして、そこで得た意識するポイントに従って、イメージ通りに体を動かすことを意識しました。

上手な人の映像を多く見ているので、そこで得たイメージ通りに体を動かすことができれば当然上手に滑れるはずです。

このイメージ通りに体を動かす、というのが非常に難しいことは言うまでもありません。これが運動神経と呼ばれるものの本質なのではないか、と私は考えています。

そのため、運動神経が悪いと思っている人は、それが難しいじゃん!と思うことでしょう。

そうだと思います。実際、思っている通りに体が動かないから苦労するんです。(ゴルフを始めたときに、より痛感しました。止まっている球を打つだけだからこそ、言い訳ができないし。)

しかし、長い期間同じスポーツを続けていれば、上手になる(=イメージに近い体の動きができるようになる)ことを考えると、すぐにできる/できないの差はあれど、後天的にも鍛えられる能力じゃないかと。

 

私の場合は、野球やゴルフの練習時に動画で撮影⇒確認を繰り返し行っているため、頭の中のイメージと実際の体の動きを比較して、その差を埋めるというトレーニングを一般の社会人と比べて多く積んでいました。

それが影響しているのか、スノボでもイメージに近い動きが(おそらくできていて)最初に言った通り、”それなりに”滑れました。注:レベルが高いわけではないですよ。

 

こんな感じで、頭を使って考えてイメージ通りに体を動かすと、新しいスポーツを始めるときには良いのでは?と感じました。

 

さらに言えば、筋肉痛がどこに出るのかまで意識を張ると、頭を使って考えた通りに体が動いているのかをチェックすることができます。 

私の場合は、右足の太ももに筋肉痛が出たのですが、「理想の体の使い方をしているときに、右足だけに筋肉痛は出るのか?」と考えていくと、自分の体の動かし方が誤っているかもしれない、という可能性に気づくことができます。

 

ということで、新しいスポーツにチャレンジするときに私が気を付けていることでした!

 

 

ちなみに、今回行ったのは栂池高原スキー場というところで、東京駅から新幹線(1.5h)+バス(1.5h)で3時間程度のところです。

人もそこまで多くなく、ゲレンデも広いので、初心者がぶつかる心配もなく、安心して滑れるので、他をあまり知らない私が言うのもなんですが、おススメです!

www.tsugaike.gr.jp

では!

なぜ、いちいち他人の言動に対してネット上で非難するのか。

 昨日こんな記事を書きました。

分かりやすいものしか愛せない我慢できない現代人 - でわひさしの日記

そこでは、なぜ人が怒りやすくなったのか(=キレやすくなったのか)について言及しましたが、1つ答えていない内容があります。

 

「なぜ、人は他人の言動に対してネット上で非難するか」

 

上記のエントリで「怒っていることが表面化して見えるようになった」ということは書きましたが、なんでいちいち表面化させようと思うのか、は触れていないです。

その点について言及しようと思っていたところ、私の敬愛する内田樹先生のブログでまさにその点について触れていたので、引用しながら私の意見を述べたいと思います。(主に前半部分を中心に使っています。)

 

↓この記事です。

blog.tatsuru.com

この記事では、そもそもなぜインターネット上では匿名の書き手が多いのかについて触れています。

 

そこに内田先生が触れる理由は、内田先生自身が以下のルールを課しているからです。

それは必ず固有名で発信し、自分の発言については責任を引き受けるということ

このルールを設けた理由は、

  • 自身が記載した内容が、誰もまだ述べていないようなオリジナルな学術的知見を発見する可能性があり、その知見のプライオリティ(優先権)が自分のものになるから。

という極めて単純明快なものです。

つまり、内田先生が匿名で情報を発信しないのは、

  • 自分の考えたことが、誰も考えていない世の中に意味のあるアイデアである可能性がある。
  • また、そのアイデアは自分のものとなる。

という理由からです。

 

これ自体は「まさにその通り」というもので、このメリットがあるにも関わらず、

なぜ匿名でしか情報発信をしないのか、という疑問に行きつきます。

それに対しては以下のように分析されています。

知的所有権のもたらす利益が大きいであることが予測される場合、人はふつう匿名を選択しない。だから、匿名者が知的所有権(いやな言葉だが)を主張しないのは、合理的に推論すれば、自分が発信しているメッセージが知的に無価値であるということを彼ら自身が知っているからである

気持ち良いくらいぶった切っており、思わず膝で手を打つとともに、自分のブログを匿名にするのはやめようか、と考えるようになりました。(まだどーするのかは検討中です。会社員ですし。)

 

その次に内田先生は以下のように話を展開しています。

「知的に無価値なこと」を書くことによっても、やはり彼らは何らかの「利得」を手に入れていると考えなければならない。

彼らは「他者の逸失利得」を自分の「売り上げ」に計上しているのである。 

自分自身には直接的利益をもたらさないけれど、他者が何かを失い、傷つき、穢されることを間接的利益として悦ぶという言論のありようを言う適切な日本語がある。
「呪い」というのがそれである。

 これを見て、思わずゾッとしました。

おっしゃっていることは非常によくわかります。

人が動くためには、何らかのメリットが無いと動きません。他人の不幸を動機づけとして動く、というのは非常に寂しい気持ちです。

が、「呪い」自体は何百年も前から存在することを考えると、それが人間の本質なのでしょう。

 

ここまで内田先生に展開してもらえれば、「なぜいちいち他人の言動に対してネット上で非難するのか。」は、9割5分は答えが出ています。

残る問いは、「なぜネット上で非難をするのか」だけです。

しかし、これももうほぼ答えが出ています。

 

 

呪いをかけるときに、相手に顔を見られたいですか?

 

 

では!

分かりやすいものしか愛せない我慢できない現代人

「最近の若者はキレやすい。」

 

みたいなことって以前からよく言われていますよね。

電車で方がぶつかったからキレて暴行を加える、みたいな事件が起きることも。

 

そういったオフラインでの話だけでなく、オンライン上でも多くの人がキレてます。

〇〇をしたらツイッターが炎上。

その行動の中には、たしかに憤りを感じるようなものもあります。(こういうやつとか。)

headlines.yahoo.co.jp

一方で、そんなに憤りを感じること?と思うようなことに対してもいちいち反応していることもあります。

「髪を切ろうかな~」とつぶやいた芸能人に対して「髪が生えない人の気持ちを考えろ!」みたいな。

 

なんで皆そんなに怒っているのかなー、とふと考えてみました。

 

 

1.昔からみんな怒っていた

 こういう議論をするとよくありがちなのが、

  昔は良かった ⇒ 今は悪い

みたいな、過去は良かったのだけど今に近づくにつれてどんどん悪くなった、という話。

でも実際には、人の性質が短期的にものすごく変わった、なんてことは無いと思っていて、昔だって同じように怒っている人は多くいたのではないかと思っています。

残念ながら私は1988年生まれなので「昔はよかった」という方々の年齢には及ばず、実態は分からないのですが、人間の本質を見ていけば「昔も怒っている人はいただろうなー」くらいのことは想像がつきます。

 

1.人間は年齢を重ねると理性的な判断ができなくなる。

キレる老人の“脳の仕組み”を医師が解説「理性と生命力が低下し…」 (2/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

こんなことが医学的にも証明されつつあり、これは今も昔も変わらない。

 

2.若者だってキレていた

医学的な証明は一つもないと思いますが、これまでに起きた各種運動は若者中心でした。

明治維新、2.26事件、学生運動・・・とか。これって世の中に対する憤りが原動力となって動いているんではないかと。

そんなに大きな話でなくとも、1980年代には学生の非行が問題になってますが、これも社会に対する憤りが表面化しているものだと考えてます。

 

つまり、昔もみーんなキレてたんです。

2.怒っていることが表面化して見えるようになった

メディアが新聞・ラジオ・テレビしかなかった昔。

今では、FacebookTwitter・ブログ・Yahooニュースコメント等、幅広く個人の意見を世の中に出すことができるようになったので、表面化して見えるようになった、という実態はあると考えます。

それまでは個人の感情を世の中の誰でも見れるところに表明する手段は、ラジオ投稿くらいのものでしたが、今では誰でも世の中に情報を発信が可能に。

なので、怒っている数が増えたのではなく、「怒っていることが分かるようになった」という可能性は大いにあるのではと考えます。

 

3.怒っている人の数が増えてきた

 怒っている人が増えてきた、という実態もあるのではないかと。

これは世の中の変化が大いに影響を与えていると考えています。

 

以前は、何をするにも時間がかかりました。

ご飯を炊く、ということだけ考えても、「精米する」「コメを研ぐ」「窯に火をつける」「窯を見守る」「蒸らす」という工程を経る必要がありました。

今では、「コメを研ぐ」「炊飯機のボタンを押す」という工程で終わります。(しかも成功率は高い。)

 

文明の進化によって、人は待つことができなくなった(=我慢できなくなった)、と思います。

 

また、簡単・分かりやすいものが好まれるようになっていった、という変化もあります。

新聞⇒ラジオ⇒テレビ、というメディアの進化を見ても、文字⇒音声⇒映像と人が理解をしやすい形にどんどん変化していっています。(フィルムカメラデジタルカメラでも同様)

角度を変えると、味覚も同様だと思います。

薄味でどんな味がするのかを楽しむという食事から、濃い味で分かりやすいものを食べるようになった食事も、わかりやすいものが好まれるようになった例かと。(私は濃い味好きです。)

 

文明の進化によって「分かりやすいものが簡単に手に入る」ようになりました。

 

 この2点で時代の変化を捉えるなら、

  • 昔:分かりにくいもの(しかなかった)を我慢しながら消費する
  • 今:分かりやすいものを我慢せずに消費する

という変化が起きたとも取れます。

これは世の中にとって「良い」と思われた各種活動結果がもたらした「結果」です。

 

分かりやすいものを我慢せずに消費できる世の中になった今、些細なことで怒ることは理解できます。

何らか自分にとって嫌なことが少しでもあった時に、

「相手がなぜそういうことをしたのか(=分かりにくいもの)」を想像することなく、

我慢せずに憤りを表明する。

こんな合理的な判断は無いと思います。

 

なので、怒っている人は増えてきた、という事実はあるのではないかと。(1で述べたように、昔もいたと思いますが、今に近づくにつれて増えていった、ということです。)

 

まとめ

まとめれば、

昔もキレる人は多くいたけど、現在に近づくにつれて分かりやすいものしか愛せない我慢できない人が増えてきたことに加え、それが見える化されるようになったから、「みんな怒っている」という風に見えるようになった。

のではないかと。

 

じゃあ、自分が怒りやすい?と問われれば、私も便利な世の中で成長してきた一人なので怒りやすい人だと思います。

ですが、上記の3点目に記載したことを反対の目線で捉えれば、

  • 相手の言動(=分かりにくいもの)を想像して、我慢しながら付き合う

という姿勢が持てるようになれば、自然と怒りにくくなるのではないかと思うので、

あえて使いにくいものを使う等で、自身の感情とうまく付き合っていこうかと思っています。

では!

結果の出すために必要なこと。(つまづくポイントを理解しよう。)

私が学生だった頃の話です。

当時、様々な活動を始めると同時に社会人の方にも頻繁に会う機会が増えました。

そんな中で出会った社会人の方が私に教えてくれた「結果を出すための方法」を本日は紹介したいと思います。

至極シンプルなものなので、読み終わったときに「えっ、そんなの?」という感想かもしれないのですが、シンプルがゆえに汎用性が高く、私は今でもその考え方を取り入れながら仕事を行っています。

 

 

では、最初の質問です。

(どんなものであっても良いので)結果を出すために必要なこととは、なんでしょう?

 ※ちょっと考えてみてから、下に進んでください。

 

 

 

 

 

 

 

答えは「行動」です。

良い結果なのか、悪い結果なのかはさておき。

結果を出すためには必ず行動が伴う必要があります。

例えば!

営業で成果(結果)の出ている人には、やはり提案を多くしています(行動)。

また、人に不快な思いをさせてしまった(結果)ときには、自分がきつい言い方をしていた(行動)。

といった具合です。

 

 

もちろん、わざわざ悪い結果を生み出すために行動する人はいないと思います。

しかし、現実として良い結果となる人もいれば、悪い結果となる人もいます。

かつ、これは完全な偶然(確率論)ではなく、良い結果が多い人と悪い結果が多い人が生まれるように、必ず人によって傾向が生まれます。

では、その違いは何にあるのでしょうか?

なぜ良い結果(=良い行動)を生むことができるのでしょうか?

 ※ちょっと考えてみてから、下に進んでください。

 

 

 

 

 

 

 

 

答えは「思考」しているからです。(正確には、良い行動を生むための思考をしている。)

現在のような、環境が目まぐるしく変わる状況では、

誰かが考えてくれた方法を使って、自分で考えることなく行動をとっているようでは、結果を常に出し続けることは困難です。

良い結果を生み出すためには、良い行動を取る必要があり、そのためにはきちんと考えられる人でないといけません。

自分のアタマで考えることができないと、これからの世の中で成果を出し続けることはできないです。

 

では、「良い思考」をするためには何が必要でしょうか。

 ※ちょっと考えてみてから、下に進んでください。

 

 

 

 

 

 

 

 

答えは、良い「質問」を自分に投げかけることです。

ここまでの話の中で、いくつか皆さんに質問を投げかけてきましたが、そのたびに頭の中に「?」を浮かべて考えてくれたと思います。

それと同じように、何も材料がない中で考えることは非常に困難です。

「質問=問」を投げかけて、それに応えようとする過程で「思考」は深まります。

そのため、自分自身に対して様々な角度からいろいろな問を投げかけることが大切です。

 

もちろん、問を投げかけるためにはバックグラウンドとして、それに対する知識等は必要なので、問を出せない状態にいるようであれば、知識をつけるところから始める必要があります。

 

ここまでの話をまとめると以下の図のように表せます。

f:id:dewahisashi:20190218153835j:plain

結果を生み出すプロセス

非常にシンプルな構成ではありますが、自分がどこに躓いているのかを把握することで、結果が大きく変わってきます。

以下に、これらに関わる有益な書籍をご紹介しておきます。

では!

 

<問いの質を上げたいなら>

イシューからはじめよ――知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ――知的生産の「シンプルな本質」

 

 

<思考の質を上げたいなら> 

世界一やさしい問題解決の授業―自分で考え、行動する力が身につく

世界一やさしい問題解決の授業―自分で考え、行動する力が身につく

 
考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則

考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則

 

 

 

なぜなぜ分析で陥りやすい誤った問いの立て方(ロジカルシンキング・課題の深堀)

コンサルタントという職業柄、世の中にある様々な思考方法に触れることが多いです。

その中でも、世の中一般的に広く普及しているのが「ロジカルシンキング」だと思います。

ロジックツリー・ピラミッドストラクチャー・MECEといったワードは、仕事をする中でも聞いたことがある人も多いかと思いますが、「なぜなぜ分析」について今回は考えてみたいと思います。

なぜなぜ分析とは

なぜなぜ分析そのものは、トヨタ生産方式の代表格として世の中に広まりました。

何か問題が生じた際に「なぜ?」を繰り返すことによって問題の原因をどんどんと深堀していく手法です。

例えば、以下のようなものです。

「売り上げが伸びない」→なぜ?
→「定番商品の動きが悪い」→なぜ?
→「数年前は売れ筋だったが今は類似品も多いから」→なぜ?
→「目新しくないから」「商品価値が下がったから」→なぜ?
→「他社に負けてしまうから」→なぜ?
→「マイナーチェンジが活かされていないから」「コストパフォーマンスが悪いから」

「なぜ?」と深堀をしていく際には、MECE(漏れなくダブりなく)といった考え方が大切になるのは言わずもがな、なのですが、「なぜ」だけを繰り返していくと誤った方向に進んでしまうケースが存在します。

その注意点を今日はお伝えしたいと思います。

 

〇:なぜ起きるのか?は課題の原因を深掘る。

「なぜなぜ分析」と呼ばれる方法で正しい問いは「なぜ起きるのか」です。

なぜなぜ分析の本質は「発生した問題の原因を特定する」ことにあります。

そのため、「なぜ?」の先には「問題の原因」が無ければなりません。

そのため、その時に使う問いは

  • その問題はなぜ起きたのか?
  • なぜ、そうなったのか?

というものでなくてはなりません。なぜなぜ分析で大切なのは「原因」です。

 

×:なぜ問題なのか?は課題の重要度を測る。

なぜなぜ分析をやると「なぜ?」としか問わないため、「なぜ問題なのか」と考えてしまう人もいます。

しかしこの問いは「課題がなぜ課題として認識されるのか」という課題設定そのものに対する疑問をつぶすための問いです。

例えば、「学力格差」というキーワードで考えてみると、

  • なぜ学力格差は起きるのか?
    ⇒経済的な差によって塾に行ける/行けない差が生まれ学力格差が起きる。(原因)
  • なぜ学力格差は問題なのか?
    ⇒学力格差が広がることで、市民間での生活格差の広がりを生むから。(課題の説明)

といった具合で、出てくる解が大きく異なってきます。

このように「なぜ問題なのか?」は課題の重要度(なぜ課題なのか)を測るときには有効ですが、原因の深堀の用途には使うことができません。

 

×:なぜそう言えるのか?は問題の裏付けをする。

次に、「なぜそう言えるのか?」と問いを立ててしまう例です。

これは問題がなぜ問題だと言い切ることができるのか、を裏付けするときには有効ですが、原因の深堀には向いていません。

上と同じく「学力格差」を例にとってみます。

  • なぜ学力格差があると言えるのか。
    ⇒(同じテストを実施した際に)〇〇区では中学生の正答率が平均60%だが、××区の中学生では正答率が平均50%であるため。

このように問題が生じた背景を探り、その問題がなぜ問題だと言い切れるのか裏付けをすることができますが、原因を深堀することには使えません。

 

まとめ

なぜなぜ分析の解説を読むと「なぜ?」と自分に問おう!とは書いてありますが、「なぜ」の後ろに続く問こそ一番大切なポイントとなります。

なぜなぜ分析の本質は、発生した問題の原因を特定することにありますので、誤った使い方にならないよう注意していただければと思います。

上記に挙げた二つのパターンも使うタイミング・用途を間違えなければ、もちろん有効な問いですので、ぜひマスターしていただければと思います。

では!

1980年代を生きたかった。(エンタメの成熟と消費者の集中)

社会人になって色々な世代の人とお付き合いをするなかで、1980年代を生きたかったなーと思っています。(80年代にこだわる必要もない?)

一応私の背景を補足すると、私は1988年生まれなので、当然のことながら80年代の記憶はほとんどなく、物心がついて記憶にあるのは1995年くらいからです。オリックスイチロー選手が活躍し、日本シリーズに出場していたなーという薄っすらな記憶がある程度。

 

1980年代で羨ましいと思う・体験したいと思うのは、以下のようなポイントです。

体験談でもよいので、教えてくれる方はコメントをもらえると嬉しいです。
(同世代の方は、こんなのが気になる、というのも歓迎です。さらに若い人は90年代って~のがあるかも。)

気になっていること

【政治・経済】

  • 消費税のない生活ってどんな生活?
  • 日本のイケイケムード(バブル含む)ってどんな雰囲気?
  • パソコンが普及する前の仕事って、どうやってやるの?
  • ソヴィエト連邦東西ドイツのような共産主義国が残ってるってどんな感じ?
  • 共産主義国が無くなるってどんな感じ?(国の崩壊ってどう映るの?)

【エンタメ】

  • 巨人の江川ってどのくらいすごかったの?
    YouTubeで動画は見れるけど、存在感とかは伝わらない。)
  • っていうか、野球に対する関心ってどうだったの?
    (今はだいぶ薄れちゃったけど)
  • 一方で、サッカーやバスケって日常の話題に挙がる程度には知名度あったの?
  • 当時のアイドルってすごくない?
    松田聖子中森明菜に代表されるように、歌もうまいし。)
  • ファミコンゲームが出た時って、マーケットはどういう反応だったの?
  • ひょうきん族って、そんなに面白かったの?
  • ウーパールーパーエリマキトカゲってどこがいいの?
  • 演歌とJ-POPが混ざる歌番組って、子どもも見てて楽しいの?

【教育】

  • 学校教育の崩壊みたいなことが言われてるけど、それって一部だけでしょ?
  • 当時の教育を受けてきた今の大人たちは、その教育をどう捉えてるの?
  •  

1980年代に感じていること

今のような多種多様な商品・サービスがある時代とは違い、商品・サービスのバリエーションがそこまで多くなく、国民が一方向に向かっていた時代だととらえてます。

特に、エンタメはその典型だと思っています。

例えば、スポーツなら野球!(もしかしたら相撲も?)みたいな、ある程度みんなの共通項が作られていた時代な気がしています。

そんな時代だからこそ、消費者の熱量・お金が一か所に集まりやすく国全体が熱狂状態になっていたのではないかと。(バブル崩壊とは、その熱量が飽和点を超えてしまったということながしてます。)

1970年代までは成熟しきっていないから、そこまでの熱量が集まらず、80年代がやはりこの観点では最強の年代ではないかと。

そんな時代を感じることなく、平成の失われた10年(あるいは20年)に青春時代を過ごした私は、80年代を生きてきた人を羨ましく思うこともあります。そのため、数多くの大人たちが80年代を回顧するのも理解できます。

そんな時代を体感している大人たちからは、まだまだいろんなことを教えてもらいたいです。

では。