少し前に出ていた記事なのですが、これを読んで勉強の目的を考えました。
私が受験した時もそうでしたし、最近の話を聞いていても同じ印象なのですが、「勉強=志望する学校へ入学するためのツール」としか考えられていないと思います。
勉強をすれば良い高校・大学に進学ができて、良い企業に就職できるよ!といった話を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。
この話は・・・ 勉強=良い企業に就職するためのツールであり、勉強の目的は良い企業に入ることだ!と同義だと思います。
たしかに勉強をすることによって(世間が言う)良い学校に進学すれば、その後の人生の選択肢が広がる可能性はあります。
ですが、必ずしも世間でいう良い学校には入れれば、その後の人生が幸せに安泰に送っていける、というわけではない点には注意が必要です。
では、「勉強の目的って何?何のために勉強ってするの?」と自分の子どもに問われたときにはどう答えるでしょうか?
多くの人は、上で書いたような回答をしている気がします。
ですが、上の回答はある意味では思考停止してしまっていて、それ以外の目的を考えていないから出している、という側面もあるかと思います。
改めて勉強の目的を考えてみたいと思います。
私がこういった解の無いテーマを考えるときには、その物事の根源を考えます。
ということで、今回も「勉強」の根源を掘りながら「勉強の目的」を考えてみます。
==ここからは全て妄想です==
勉強の根源は、やはり狩猟方法や木の実の収集方法、生活の仕方等を親から子どもに教えていくことから始めたのではないか、と想像します。
何も教わっていない子どもが大人になった場合、狩猟の仕方が分からず餓死するというのは目に見えています。そのため、親⇒子どもに教えます。これを子ども側の視点に立つと狩猟の仕方を「勉強」している、と言えます。
これは動物の世界においても同様なので、おそらく間違いないかと。
つまり、この時代の勉強の目的は「自分が生きるため」です。
その後、人類は文字を発明したことによって口頭以外での知識の伝承ができるようになりました。また、口頭での伝承から脱却することで、遠く離れた人へも伝えることができるようになりました。
そのため親⇒子ども以外の学習の手段が生まれ、子どもが学習することのできる幅が非常に広がりました。
おそらくこの頃には、効率的な食糧調達方法に加え、医学(占い?)・歴史といった学問に通ずるようなものも生まれてきたと予想されます。
ここまで来ると「未来にわたって人類が生きるため」に勉強の位置づけは変わっています。(もちろん、自分が生きるため、というのが第1の目的でしょうが。)
そこから、学問を追求する人は以下の2つに分かれていったと思います。
- より効率的に人類が生き続けるために追求する人
- 世の中にある不思議な事象を説明しようとする人
この2種類は今にも続いていると思います。
一般人にとっては上記の2つなんてどうでもいい、というのが正直なところかと。「生きるため」というのが勉強の目的です。
しかし、生き方にも様々な種類が生まれてきました。特に貨幣制度の発展に伴い、貧富の差が明らかになっていき、人の間で優劣が見える化されました。
そうなると親としては、少しでも有利な(=人よりも優れた)状態で子どもには生きてほしい、と願うでしょう。
その結果、勉強をする目的が「子どもが有利な状態で生きられるため」に変化しました。
では、優劣の”優”の立場の人の視点、特に使用者側の視点で考えると、自分が雇う人は良い人であってほしいと考えるのは普通です。
従って、自分が雇う際の条件を決めていくことになります。初期段階においては肉体労働が基本なので「体が丈夫な人」「若い人」「指示された内容が理解でき、行動できる人」といった条件でしょうか。一方で、ホワイトカラー的な職業においては、中国の科挙試験のようなものでの成績上位な人といった条件を付けていたことは予想されます。
結果的に親が子どもに伝えるのは大きく以下の2つに分かれます。
- 肉体労働で働きぬける頑丈な子どもを産み、その労働をさせてあげたい!
- 科挙試験に合格できるように塾でも何でも入れて合格させてあげたい!
どちらも根源にあるのは「生きられるのは最低条件として、できれば優劣の”優”に入れるような子どもにしてあげたい」という親心です。
この後者が今の勉強の目的の始まりではないかと予想します。「科挙に合格できること=今後の人生をいい感じで歩めること」になり、今の考え方に近しいものです。
この点で重要なのは、この時点で「科挙に合格する」ことが目的となっているので、もはや科挙で何を学ぶか自体はどうでもよくなっています。
以前の勉強においては「学ぶこと=生きるためのツールを手に入れること」なので、何を学ぶのかは非常に重要でした。(陸に生きているのに、海の狩猟方法を知っても意味がない、とか。)つまり、勉強する内容に意味があった、ということです。
一方で、科挙時代では「学ぶこと=合格するため」なので、もはや学ぶ内容は何でもよくて、科挙に合格さえすれば内容なんてなんでもOKな時代になりました。
それゆえ、勉強の目的が短絡化してしまい、学んでいる内容そのものに対して意味を問われても答えられない時代が始まったと予想されます。
ここまで考えてきて感じるのは、もしかしたら今勉強している内容自体に意味なんてないのかも、ということです。
勉強はツールである、という冒頭に挙げた考え方は正しくて、勉強することに意味はあるけれど、勉強している内容に意味はない、ということです。
ただ、内容に意味があるとすれば、上述した「生きられるのは最低条件として、できれば優劣の”優”に入れるような子どもにしてあげたい」という親心の、「生きられる」という条件を満たすための勉強だけかもしれないです。(今の日本に照らし合わせれば、読み書きがある程度できる、四則演算ができる、とか)
まとめると、勉強する目的は2つある。
- 自分が生きるため。
- 優劣の”優”に入るため
それぞれの目的に提供できる学習内容は、ある程度共通的に教えられるのは1の目的まで。
世の中の価値観が多様化している今の時代においては優劣をつけることが困難なので2の目的については共通化できない。
といった結論な気がしています。
冒頭に挙げた「勉強の目的って何?何のために勉強ってするの?」に対しては、
「基本的なことは生きるために勉強する。あとはお前次第。」
さ、思ったよりアバウトな結論になりましたが、みなさんはどう考えますか?
では。