人は何を目指すんだー?ゴールってなんだ?幸せってなんだ?ということを考えるときに、私はマズローの欲求段階説に立ち戻ります。(信じすぎというほどに。)
以前のエントリでも出していますが、マズローの欲求段階説は以下の図のようなものです。
会社のメンバーと話している中で、たまたまこの話題になったので、今日はこの図の「自己実現欲求」について考えてみたいと思います。
注:専門家でも何でもないので、あくまで私の解釈です。
1.欲求段階説でも異質な「自己実現欲求」
欲求段階説は、自己実現欲求まではゴールが分かりやすいものとなっています。言い換えるなら、ゴールは共通化されます。
例えば、生理的欲求が満たされていなければ、衣食住を満たすといった形です。(当然求めるレベル感の差はあると考えます。)
一方、自己実現欲求はゴールの共通化が不可能です。なぜなら自己実現をするためには、何を得られれば当人にとって欲求が満たされると言えるのか、は人によって異なるからです。
そのため、自己実現欲求を満たすためには、①自身にとっての欲求が満たされる状態を描き、②その状態にたどり着く必要があります。
①を必要とする点が、他の欲求との大きな違いです。
2.欲求が満たされる状態とは
もちろん人によって異なることが前提となりますが、例えば、
A:お金をたくさん得ること
B:高級住宅に住んでフェラーリに綺麗な奥さんを乗せて走ること
C:自分も奥さんも笑顔で健康に生きること
みたいな感じで状態を定めます。これは各人によって異なります。
ただし、内容的にはA⇒B⇒Cになるにつれて、手段⇒達成状態となっていきます。
私自身は状態を定義するのであれば、Cのようなものを各人が持つのが望ましいと考えています。なぜなら、A・Bについては達成状態にたどり着く手段の話に留まっているからです。
仮に、A・Bを達成したい状態と定義をしてしまうと、本当に得たい状態(=なぜA・Bの状態を得たいのか)が分からなくなってしまいます。その目標で走り続けると、本当に得たい状態を見失い、フェラーリが手に入らなかった=不幸、といった誤った解釈をしてしまい、本来は幸せだったと言える状態かもしれないのに、不幸と勘違いしていしまいます。
そのため、欲求が満たされる状態は可能な限り手段を排除して、「どうありたいか」を考えることが必要ではないかと考えています。
3.「どうありたいか」で欲求の満たされた状態を定義すると起きること
不思議と、欲求段階説の下位4つに近しい状態が出てきます。
例えば上の段落で挙げた例だと、「自分も奥さんも笑顔で健康に生きること」というのは、安全・安心の欲求+所属の欲求を合体させたようなものとなります。
他にも、「みんなからありがとうと言ってもらえる人でありたい」というものであれば、承認の欲求に近しいものとなります。
このように、下位4つの欲求段階を経て最上位の自己実現欲求にたどり着いているはずなのに、自己実現欲求を探求すると下位4つの欲求段階に戻るような現象が起きます。
せっかく最上位までたどり着いたのに、再度戻るような現象が起きるのは非常に面白いです。
私は自己実現を達成しているわけではないので未知の世界ですが、もしかしたら自己実現欲求を下位4つの欲求段階で満たすと、また自己実現欲求に至ります。その結果、また下位4つの欲求段階に戻る、といったことが起きるかもしれない。それを満たすと~とグルグル同じ現象が起き続けるかもしれないです。
4.本当にすごい人
稲盛和夫さんが「利他主義」をよくおっしゃられていますが、自分を排して他人に徹することができる人を私は本当にすごいと思います。
ポイントは「自分を排する」ことです。マズローの欲求段階説では最上位の概念が「自己」実現なので、どんなに頑張っても自分を排する世界には至りません。
私はまだまだその領域には到底達していないですが、そこにたどり着いた方は本当に仏様のような方だと思います。
もしかしたら、欲求段階説をグルグルと回り続けたら(意味は違いますが)輪廻のように仏様のような心を持てるのかも、と感じます。
5.まとめ
抽象的でよくわからない話かつ宗教っぽい話に最後はなってしまいましたが、「自己実現」について私なりに解釈をしてみました。
中学生でも触れるような考え方ではあるものの、結構奥深いと常々思っていたため、今回考えていたことを吐き出してみました。何かのご参考になればと思います。
では!