平成という時代が終わり、2019年5月には次の時代が始まろうとしています。
これも日本独自の時間の概念ではありますが、大化からこれまで約1500年続いてきた日本の歴史のなかで日本人には深くなじんでいる時間の概念だと思っています。
そこで、平成という時代の変遷を教育の観点から振り返ってみて、次の時代にはどんな教育が必要とされるのかを考えてみたいと思います。
私が捉えている平成時代は、「全体最適⇒個人最適にシフトしていった時代」です。
1.世の中はどう動いたか。
以前のエントリでも触れていますが、国力をつけるために、国民全体の幸福度を上げるために、一律の教育を提供し、底上げを図っていた昭和時代を引き継いだところから平成は始まりました。
しかし、平成の始まりは旧体制の崩壊から始まりました。
ソ連崩壊・東西ドイツの統合等、東西冷戦が終焉を迎え、(各国の紛争はあるものの)世界的には平和な時代が始まりました。その後、軍事技術の民間転用が始まり今までできなかったことがドンドンと実現するようになりました。
一方で、日本に目を向けるとバブルの崩壊が起き、昭和的優良企業がつぶれていき、その後十数年続く不況時代へ突入していきました。そこでわずかな人たちだけが「このままでいいんだっけ?」と気づくことができました。
粒の大きさは違いますが、世界も日本も大きな変革点を迎えたのは間違いありません。
その後、PC・インターネットの普及、携帯電話の普及に代表されるような個人消費時代が始まります。それはTVゲームの世界でも同じように起きており、据え置き機しかなかったところから、ポータブルゲーム機が普及し、ついにはNintendo Switchのような据え置き機でありながらポータブルな端末が出ました。
少子高齢化が叫ばれる中で、一家に1台ではなく一人に1台にする作戦です。
2.教育はどう変わったか。
残念ながら時代に合わせた教育システムには変革できませんでした。
平成での教育システムの変化は大きく3つだと思います。
1.2.ゆとり教育の開始と終了
ゆとり教育が始まった背景は専門のサイトにお任せしますが、私としてはゆとり教育が終わってしまったこと(=昔へ戻った)ことが非常に残念でした。
私がゆとり教育を受けてきた、という背景もありますが、社会全体として昭和的発想からの脱却ができなかったのが残念でした。
ゆとり教育でよく言われる弊害が、学力の低下です。学力が低下した=テストで点数が取れなくなったことが残念ってまさに昭和的発想ですよね?
1+1=2となることを、歴史をどんなに覚えたところで、崩壊した社会を立て直す次の時代を作るための教育にはつながらないです。昔であれば一部の英才部隊が国全体を率いていくことも可能でしたが、多様化してしまった世の中を一部の英才部隊が率いることは不可能です。
必要なのは、体制崩壊後の多様化した世の中に対して価値を創造する人たちを創造することです。誰かが決めたことを忠実に正確に実行していく人たちを創造することは、時代と照らした時に必要なものではないです。(全員ができなくなってしまっては、それはそれで弊害も出るのですが。)
3.英語・プログラミング授業の開始
一方で、世の中の情勢を反映して始まったと思われるのが、3.英語・プログラミング授業の開始です。こういったのを始めてみること自体は基本的には賛成です。
それまでの教育改善で行われてきた発生した課題に対処するための変更ではなく、次の時代を見越した際の変更という点は、教育システムを作り上げる考え方に合っていると思います。
もちろん学校の先生方はそれまで求められていなかったスキルが必要となるため、大変なところは多いかと思いますが、国に従事する公務員が大半なので、国が決めた方針に従っていただくしかないです。(将来の日本を作る人材を育てるわけなので。)
3.まとめ
こうやって振り返ってみると、時代の変化⇒教育の変化と必ずしもつながっていないことが分かります。多様化した世の中において一部の授業を変更するのではなく、これまでと同じ30人や40人を相手にした授業を実行すること自体の難しさがあると思います。
また、個人的には、英語やプログラミングといった成果が目に見えるもの以外での教育改革も必要になるのではないかと考えていますが、長くなってしまったのでその話は次回にしたいと思います。
では!